奇跡の光跡  26 八起正法先生編
 九月一日

 次のことが暴露された。

 信次師の昇天を報ずる当時の『GLA』(昭和五十一年八月号)誌に、当時、GLA東京本部の理事であり、三宝出版社長であった堀田和成氏が 「巨星堕つ」という一文を載せた。

その中で、「高橋信次先生は息女の佳子先生にのみ天上界から通信をする、と遺言して亡くなられた」と書いたが、堀田和成氏の創作附言であったと、堀田氏自ら発表した。

それは、昭和五十二年九月一日、関西の箕尾温泉にGLA東京本部、GLA関西本部の理事、西日本本部長が集まり、ミカエル問題が討議された時に、その席上で発表されたものであった。


 園頭師は語る。「高橋先生が存命中より「高橋先生が私に憑って通信して来られた」と、人を欺している人が何人かいた。

そして、ミカエル事件の推移を見て、高橋先生が憑(かか)られたかのように高橋先生の口真似をしている人がいた。

このようなことがあったために、堀田和成氏が「佳子先生にのみ天上界から通信する…」というウソを書かなければならない位だった。

 そのことが今度は、佳子氏がいくら高橋先生の教えと違ったことを言っても、それすらも高橋先生の霊がいわしめていることであると、「何が正しい」の判断もせずに盲信狂信する人が多く出てきた。

しかも、GLAの講師は、その文章が堀田氏の創作(ウソ)であることを知りながら、あたかも真実らしく宣伝したために一層混乱させる原因となった」、と。


 九月は、会議は二回開催された。


 高橋佳子氏とミカエル・ウイングスの講師達は、園頭氏の住む福岡を尋ね反省を表明することになった、と中谷関西本部長より園頭師は電話を受る。

園頭師は、「それほどまでに反省しているのであれば来福するまでもない。その反省を文章にしてGLA誌に載せて欲しい、そして反省された通り、高橋信次先生の心を汚さないようにしてもらえば、それで結構です」、と返答した。

しかし園頭師は、今となっては、来福してもらって反省の意を表明してもらうべきだったと後悔する。


奇跡の光跡  27 八起正法先生編
園頭師

「その後、高橋先生の未亡人高橋一栄氏と二人の理事が福岡に来て、GLAを混乱させた責任を謝罪して収捨を図ることを約束されたのであるが、佳子氏と若い講師、高橋興和(高橋先生の実弟)、関芳郎、谷口健彦氏等は、一栄夫人を八起ビルの本部へ誘い出した。

「佳子がちょっと八起ビルに来てというので出向いたら、若い講師達が円陣をつくっているその真中に引き据えられ、暴力を振わんばかりの勢いで罵倒され泣かされました。
こんなひどい罵倒を受けたことはありませんでした」、とGLA関西本部長中谷義雄氏に伝えたのである」

九月二十七日

 有馬温泉にて最高会議開かる。

 園頭師は次のように記述している。「「高橋信次先生は、ミカエル佳子氏にのみ通信をされる」という文章は、三宝出版の社長であった堀田和成氏が書かれた「巨星堕つ」という高橋信次先生の昇天を悼む文章の中にある。

ミカエルは起つという宣言と、ミカエルの意志を正しく伝えるミカエル・ウイングスと称する若い講師団が、全国を飛び廻って、「ミカエル佳子氏の偉さは高橋信次先生以上であり、釈迦・キリストも佳子氏の足下にも及ばない」と宣伝したために、知性理性を失った即ち正見のできない感情的に狂信盲信をする人々と知性理性で正見する人達とに分裂が始まった。

これではいけないといっていち早く堀田和成氏は三宝出版社長をやめられた。

私もGLA脱退を決意した。高橋一栄会長から、ミカエル佳子氏を反省させるからということで私は慰留され、堀田和成氏は再び三宝出版社長に復帰されることになり、GLA誌に発表になった間違い、また、ミカエル・ウイングスの講師団の間違いをどのように反省させ修正するかということで昭和五十二年九月二十七日有馬温泉で最高会議が開かれた。 

出席者は、高橋武、堀田和成、佐藤要、小柴敏雄、中谷義雄、中村勇、増田三郎、岩川文夫、林正、園頭広周 この最高会議での決議は、無条件に修正するという約束で開催されたが、後の東京本部での会議では、反省は一切しないと決定。

これによって、またまた混乱。

 


奇跡の光跡  28 八起正法先生編
 
昭和五十二年十月

 関西本部長中谷義雄、西日本本部長園頭広周氏を排斥する中傷文書が飛ばされた。
一旦復帰した堀田和成氏も失望して、また辞職。

この間、信次が説いた正法を守って行うとする会員と、ミカエル佳子氏を信じていこうとする会員と、どのように判断していいか迷っている会員の三つに別れて混乱、脱退者も続出した。
佳子氏に忠誠を誓い団結の強さを誇っていたミカエル・ウイングスの講師の中にも脱退者が出た。

しかも、高橋佳子氏を人類の救世主(メシヤ)として祭り上げ、GLAの実際の支配権を握ろうとした信次師の実弟高橋興和氏は若い講師と共に、次なる方針を打ち出した。

「GLAの指導者、講師、幹部は四十五歳まで、会員は四十歳までとし、それ以上の年齢の者、並びに他の宗教団体を遍歴した者は会員としない」と発表。この方針を聞いて、脱退する会員がまたまた続出。                                

 十二月

信次師の高弟の一人である観音寺住職村上宥快氏がある。

氏が主宰する機関誌(昭和五十二年十二月号)に「解体寸前の岐路に立つGLA苦しまぎれに教義の誤りを認める」という一文を発表した。
その内容は、同年九月二十九日、信次師の未亡人一栄夫人を中心とする理事会で、「ミカエル佳子といったのは間違いであった。今後絶対にいわせない」というものだった。

この記事を載せた機関誌の発刊後、GLAは村上氏の中傷の文書をバラ撒き、村上住職の宗派の寺にも中傷文を送りつけた。
村上氏は弁護士と相談、告訴することを決意したが、GLAは弁護士を立て和解を申し入れるという結末があった。

これは大変なことになったものである。
宗教に年齢制限とは、確かに特異な混乱であった。

この実弟の興和氏は親鸞の生まれ変わりで、キリストの時代はパウロといわれた、と高橋信次師は言い残しているが。

現在のキリスト教はパウロ教といわれるほどに変えてしまった。キリストの時代は、キリストの御名を崇めることによって救われると説いたことと、親鸞上人が阿弥陀如来という救済者を仕立てたことと、現代は、佳子氏をメシヤに仕立てたことが、同じ発想だったとは不思議である。

今世は、佳子氏と共に、釈迦、キリストまでも否定するという『業・ごう』をつくってしまったことになる。
現代日本では親鸞は絶対的だが、多くの僧が肉欲を戒めたのに、この人は妻帯も実行している。                                 
 五十二年のある日のこと、園頭師は佳子氏と直接話し合いをしようと思ったが、百二十人の警備陣が編成され、会わせないという事件があった。

園頭師は言う。「ミカエル事件は、私と佳子氏が話し合えばきれいに解決すると思う。そして、いずれ時期が来たら一緒になりたいと高橋武弁護士、理事で事務局長であった佐藤要氏に、はっきり言っている」と。    




奇跡の光跡  29 八起正法先生編
昭和五十三年(一九七八)三月十五日

 高橋信次写真集『七年の光跡』出版さる。三十八ページには紀州の白浜の丘の上から法を説いている信次師の写真があり、説明文には「丘の上の説法は、〃山上の垂訓〃のイエスを偲ばせた」とある。

 三月

 GLA最高メンバーである高橋一栄、小柴敏雄、佐藤要氏が福岡を訪ねた。

そのとき園頭広周師は「高橋佳子氏は、私の母(一栄氏)は過去世でマリヤですと言っているが、それは本当ですか」と一栄氏を追求すると、答えることが出来なかったという。

マリヤ様は信次師の母であり、鎌倉時代には日蓮を産み育てており、一栄氏は古代インドの釈迦の時代に、マイトレーヤーという名前で釈迦の身の回りをしたり、お釈迦様の説法のふれを鐘、太鼓をたたいてふれて廻る役だっただった、と信次師は言い残している。
                                       
 三月末                             

 東京のあるホテルにて、「ミカエルを売りだす会」を開催、マスコミ関係者、ジャーナリスト達が六十人程招待され会見した。

マスコミ関係者にしてみれば、二十歳の娘氏が世界人類の救済者であることを宣言したことに対して、その実体をよく知って報道しようと、「ミカエルについて」、いろんな角度から質問した。

しかし、佳子氏は、質問に答えることができず、遂に泣き出し、「今後、もう一切ミカエルとは言いません」という異例の記者会見となった。

こうして、GLA本部では、マスコミ関係者、新聞記者にミカエルを売り出した後、四月は横浜、五月は福岡で「ミカエルは語る」という大講演会の予定でポスターも貼られ、宣伝中であったが、先の記者会見で「ミカエルとは二度といいません」ということになって、ひと晩のうちにポスターをはがして廻るということになる。

福岡では、四月二十三日、九州支部長会議の席上で、「今後、ミカエルということは絶対にいわないことになった」というGLA本部の方針が伝えられた。 


奇跡の光跡  30 八起正法先生編
 七月一日

 信次師の高弟の一人、園頭広周師のGLA脱退宣言
                                 
 「GLA脱退宣言」園頭広周


 神は正法によって天地を創造され、正法は永<中略> 類を救う心の柱となった。釈迦、キリストが説<中略>GLAは真理を冒涜し、正しく正法を伝える<中略> 正しく正法を守り旦学ぶために、既にGLA<中略>とともに、私もまた、正法を正しく学び旦守る<中略>志の方々とともに正法の伝道に邁進するものである。 

                     昭和五十三年七月一日

  講義をする園頭師


 
〈真実は時の流れとともに〉

 
 信次亡後、類を見ない程の混乱が起り、高弟達は四散し、それぞれに会を主宰、現在に至っている。

だが、信次師が予告していた『新復活』は遅々として出版されなかった。信次師が、生前の講演会の中で度々予告し、また昭和五十一年七月号の『GLA』誌にも予告していたにもかかわらず…。『真創世記』の中で高橋佳子氏が「その原稿は私の手もとにありますが …」と記述しているが、原稿に都合の悪いことが書いてあるので、佳子氏が、握り潰しているとの、もっぱらの噂であったが…。

 まさしく、その時、信次亡後十五年目にして、次のことが明らかになった。


   ●奇跡の光跡F  に続く

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【2012年5月6日】更新

 

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