奇跡の光跡  21 八起正法先生編
 三月二十五〜二十七日

 宮崎に於る九州青少年リーダー養成研修会開かる。(青年幹部研修会)

 園頭師

二十五〜二十七日、高橋興和、谷口健彦氏が、九州の青少年リーダーの養成研修をしたのですが、助手として連れて来たのは、ギターをひくのと、歌を唱う者だけ。

チームをつくって歌ったり踊ったりすることが研修だというわけです。残念なことです。

ギターをひいて、歌を唱って、反省、反省、家庭の調和といって、政治、経済、教育、科学、芸術など、人間が生きてゆくために必要ないろいろなことを少しも考えない青年が、あと二十年、三十年と経って、世の中の人々を指導できるわけがありません。

こうなると、正法を全く知らないGLA以外の青年達の方が、よほどりっぱだということになります。

三十歳過ぎても、「日本はどうなるのか」というようなことを全く考えない人間が、人を指導できるわけがありません。 <中略>

 二伸 二十日、和歌山の研修会の後で本部長会議がありました。

その時、中谷関西本部長から、小金井で羽場さんがやたらに「守護霊がこういっている…」という指導をしていることに対して、それはよくないという意見が出されました。<後略> 

(昭和五十二年四月一日付の園頭広周師の書簡)


昭和五十二年四月十四日付の園頭師の書簡より


 前略 羽場氏がやっている小金井の反省研修は、ついに自殺者を出したりして問題があるわけですが、中京の谷口健彦氏が小金井と同じ方法で今度は始めるというわけです。

<中略> 一栄会長も佳子氏も谷口君がいうことには無条件です。それで私が谷口君がやっている企業研修教育には問題があるといおうとしたら、一栄会長が声を荒げて私にいわせまいとされました。

これだから女は困ります。すぐ感情的になりますから。三月二十五〜二十七日の、九州の青年幹部研修は、私が計画して指導しようと思っていたのですが、一栄会長から「今度の研修は全部谷口君に委せますから、あなたは一切口を出さないで下さい」という手紙がきまして、それで私はどうするかを見ていたのですが、

研修から帰ってきた人達が、それぞれ各県の支部長達にどんなことをいったかといいますと、八月の夏休みの青年研修のために、「ギターを買う金を出してくれ」、「コーラス・グループをつくるから金をくれ」、「仮装行列をやるから金を出してくれ」などです。

そんなことは研修以外の場でやればいいのですから、次のように谷口君に注文をつけておいたのです。

<中略> しかし、やったことは歌って踊らせただけ。ギターを買って下さいといわれた熊本県の支部長はびっくりして電話してきました。「一体GLAはなにをするんですか」と。

薪を買う金を寄付をもらってくれといわれた山口県の支部長も、またびっくりして電話してきました。


奇跡の光跡  22 八起正法先生編
 
三月三十日


 三月五日の突然の会議に呼応したように、祥伝社より『真創世記・地獄篇』、つづいて『黙示篇』そして『天上界篇』の三部作がつづけざまに出版された。

この本は、高橋佳子氏が霊示を受け、佳子氏自身が短期間の内に書いたということであったが、十年目にして驚ろくべきことが判明したことは先に述べた。

ウエブ・マスターの手元にある『真創世記』は、第四十六刷版であることから判断して相当数のものが購読されたことになるが、その当時の宗教誌の記述を引用する。


「昭和四十八年に宗教法人の資格を取得した神理の会(GLA)はオカルト・ブームと戦後経済の高度成長の破綻という世相と相まって若者を中心とする人々の関心をかき立てた。
しかし、昭和五十一年、急上昇期にあった教団は大きな危機を迎えた。
四十八歳という若さで、同年六月二十五日、高橋が突如として他界したのである。
ところが教団は、鮮やかに転身を図った。高橋の娘佳子(霊体、大天使ミカエル)という新しい救世主を登場させたのである。
大新聞の広いスペースに著者の写真を伴った著書の広告は世間の注目をひいた。」


「真創世記」はSF作家平井和正氏が「私が半年ぐらいにわたって書いた」と自ら発表したが、
昭和五十二年三月五日に突然の会議が開かれミカエル宣言が出され、三月三十日付で『真創世記』初版が出版されたということは、
その半年以上前からすでに計画、筋書き通りの謀議がなされていたということになる。

そして、昭和六十年初版の『高橋留美子の優しい世界』平井和正・徳間書店によると、
『幻魔大戦』は、高橋佳子氏との半年間にわたるミカエル学校の産物以外の何ものでもないと書いているが、これによっても平井和正氏と高橋佳子氏の関係が伺い知れる。 
                   

 


奇跡の光跡  23 八起正法先生編
〈平井和正とはどんな人か〉                                 
 一九二八年生、往年の人気アニメ『エイトマン』の原作者として有名だが、彼を一躍ベストセラー作家にしたのは、狼男を主人公にしたオカルト小説である。

1976年(昭五十一年)の『人狼白書』から天使や悪魔が入り乱れる宗教的展開を見せはじめ、『人狼天使』へとさらに強まって行く。

『幻魔大戦』にはGLAならぬCLAという宗教団体まで登場する宗教小説とされる。                             
 
これより、園頭広周師の平井氏の批判論文を引用し、如何に「正見」が大切かを考えてみたい。

 園頭師「さて、『アドベンチャー八月号』を読んだ。この本のはじめの八〇頁が、平井和正氏と犬神明の対談である。
この平井和正氏が、高橋信次先生亡き後のGLAに入り込んできて、高橋佳子氏をメシヤに仕立て上げ、「釈迦・キリストの教は間違っている」といわせた張本人であり、この平井和正氏のいうことを信じた若い講師達が、佳子氏を中心にして演じたのが「ミカエル事件」だったのである。

高橋先生が亡くなられるとまもなくサタンはSF作家の平井和正氏をGLA本部に送り込んだ。

『狼人間』という得体の知れない人間を主人公にした『幻魔大戦』というような小説を書く人間が正法がわかることはない。

正法がわかっていたらあんな空恐ろしい小説が書けるわけがない。そのサタンの手先であった平井和正氏によって「ミカエル事件」は計画された。

本来は高橋信次先生の教を正しく継承してゆくことに努力しなければならない高橋興和氏が、いとも簡単に平井氏に乗せられたのは、白浜研修会以後興和氏は自分の魂をサタンに売っていたからである。

「釈迦、キリストは、人類が幸福になる道を説かなかった。私の父高橋信次もニセモノであった」と、少しでも常識のある人にはこういうことは絶対にいえないことである」、と。


 園頭師の以上のような一文があるが、平井氏が暴露した年の三年前の昭和五十八年に初版された『園頭広周著・現代の釈尊高橋信次師とともに・正法出版部』の中で、園頭師は次のように書いている。

「本には如何にも(佳子氏は)霊能者のように書いているが、そのような霊能はないことは知っている。本は一度出版されると、著者本人とは関係なしに、本自体が一つの人格を持って独走するその危険は計りしれない 」、と。    


四月二十日付の園頭師の書簡の中から

「合掌、高橋佳子著『真創世記』が発刊されました。この本は、佳子氏が一週間で書き上げたというふれ出しですが、実際は若い講師達の合作だという話もあるし、SF作家の平井和正氏が書いたという話もあります。…後略… 」、と。

昭和五十二年の四月には、六十一年の『アドベンチャー』誌を待つまでもなく、正しく園頭師は看破していることになる。

 SF作家の平井和正氏が主宰高橋佳子氏に接近、GLAに潜入し、二十歳そこそこの娘さんを自由にコントロールすることは、さほど困難なことではなかったに違いない。

だが、古代インドの時代、釈迦の高弟の中で智慧第一と言われた舎利弗としての過去世を持つ園頭師にとって断じて許しがたく、そして、この事件は如何に「正見」することの大事さを、思い知らされる事件であった。




奇跡の光跡  24 八起正法先生編
 
五月

 「ミカエル・ウイングス」という若い講師団がつくられ、ミカエルの親衛隊的組織MBG(ミカエルボーイズアンドガールズ)を結成された。また、『真創世記』には次のような宣言が記されている。

 「ミカエル宣言」

「天上より出でて、世界に散らばりし、多くの天使たちは<中略> 私のもとへ結集してくるであろう<中略>
この数十年の間に、徐々に成されていくことなのである< 中略> 
やがて久遠の宗教となり、形づくられていくのである< 中略>
己れをみがき、日々精進して道をきわめよう<中略> 
見えない網の目のような糸が、もうすでにはりめぐらされている<中略> 集い来らねばならない< 中略>
すべては神のみ心のままに<中略>これに気づき、立ちあがらねばならない」 

「高橋佳子氏のミカエル宣言の要旨」  
                               
「わたしは大天使ミカエルである。神はミカエルにこの世界を委された。
釈迦、キリストは人類が幸福になる道を説かなかった。
仏教、キリスト教はローカル宗教であり世界宗教ではない。
釈迦、キリストを指導したのは、わたしミカエルである。高橋信次先生の教えは必要ない。五年後には全世界の人類はみなミカエル佳子の前にひざまずくのである」、と宣言した。

このようなことによって会員の脱退者が続出した。

GLA関西本部長中谷義雄氏、西日本本部長園頭広周師は、協力して、高橋信次先生が説かれた教えが、高橋先生の家族(高橋一栄夫人、高橋佳子氏)と実弟(高橋興和氏)によって否定されることだけは避けなければならないと二人は強硬に反省を求めたのであった。

その結果、昭和五十一年三月以来のことは全て反省するということに修正、六月に三宝出版社長を辞職していた堀田和成氏も復帰した。

 六月二十五日

 園頭師は次のように言う。

「昭和五十二年六月二十五日、社会党会館で、追悼一周年の講演会があることになった。
高橋先生の教えも、釈迦、キリストの教えも否定する人達と行動を共にする必要はないと考えていたので、私は上京せず一人で、福岡で追悼しようと思っていた。
すると、六月二十三日、高橋一栄会長から直接の電話があり、「信次先生のことについてぜひ話し合いたいことがあるので上京してほしい」ということだったので、「わたしは追悼講演会には参加しませんよ、ただ話し合いだけします」、と返事して上京した。」


「高輪プリンスホテルに出向いて行くと、一栄会長とGLA本部事務局長佐藤要氏、GLA東京本部長小柴敏雄氏と、GLA関西本部を代表して林正氏が来られていた。
話というのはミカエル佳子(高橋佳子)先生を支持して下さいということだけであった。

このような理由によってどこに支持しなければならない理由があるのか、「あなた方がミカエル佳子先生を支持する理由をいいなさい」といったら、四人とも小さくなって答えられなかった。

「こんな下らない話し合いを続ける必要はない」といって夜十一時に打ち切った。 
私は、高橋先生への恩義があるから、一栄会長に敬意を表してホテルの玄関まで見送った。

私と林正氏の二人はホテルに泊ることになっていた。玄関へ出てみると雨が降っている。一栄会長を見送った後で林正氏が、「今、雨が降っていても明日は晴れますよね」というので、「違う、明日はもっと大雨になる」といったら、

「でも、佳子先生が講演に出掛けられると、昨日まで雨であってもその日は晴れになるといいますよ」というので、「明日はもっと大雨になる、法を歪める者に天が味方する筈がない」といい切ったら、

「先生もいわれますね」といったが、しかし、明日になったら恥をかきますよ、というようなそぶりで林正氏は自分の部屋へ帰った。」



奇跡の光跡  25 八起正法先生編
「講演会には出ないといったものの、折角上京したのであるから、どういうやり方をするのか見て帰ろうと思って、講演が始まった頃を見計らって会場に行った。

 高橋先生の追悼一周年記念だというのに、『ビバ・ミカエル』と書いた大看板とポスターだけで、高橋先生を偲ぶものは何一つなかった。

講演が終ると、みな壇場へ上って佳子先生に誓いなさいということになって、一番先に「偉大なるメシヤを仰ぎます」と誓ったのが関芳郎講師であり、それから林正氏夫妻は泣いて誓い、以下全員が誓った。

誓わなかったのは私一人であった。

みんながひざまづいて誓うのを、私は平然として腕を組んで見下ろしていた。世界の宗教史上、全く例を見ない茶番劇であった。

ヌミノーゼ心理のとりこになって正しい判断を失った人々の奇怪な行動を私は冷ややかな気持で眺めていると、事務局長の佐藤要氏がやってきて、「先生も誓って下さい」といった。

「キリストは『天を指して誓うな、地を指して誓うな』といわれたことをあなたは知らぬのか」と私はいった。
誓いは神にするものではない。人にするものでもない。われとわが心に誓うものである。
「私に誓え」と強制する佳子氏は、神理のなんたるかも知らないのである。

五十歳近い分別盛りのこの大人が、どうしてこんなにも頭が馬鹿になるのであろうかと、私は思った。
誓いの儀式が終って、箱根の青年研修会のビデオを放映することになった。

そのビデオの中で佳子氏が、『私が講演に行くとなると、前日までは雨であっても、その日になると必ず晴れるのです』と話しているその頃が一番大雨でどしゃぶりだった。

丁度林氏が来たので、『この外の大雨を見なさい、佳子氏が講演していることはウソじゃないか』といったら、どうもわかりませんと頭を抱え込んでいた。」 

〈幻の『MLA』誌〉                               
 七月

 宗教法人GLAは『GLA』という機関誌を出していたことはこれまでに述べた。ところが昭和五十二年八月号から、突如「MICHAEL」、『MLA』と改題、会員に送付された。園頭師は激白する。

「これは高橋佳子氏の一存で改題されたもので誰も知らなかった。八月号が送付されてきてはじめて知ったのである。

今となれば、これはこのままにしておいた方がよかったと思うのであるが、その時は、高橋信次先生の亡くなられた後を汚してはならぬという気持ちがあったから、GLA会長であり、佳子氏の母である一栄氏、東京本部の小柴、佐藤氏に
『なぜここまでなるのを知らなかったのですか』と反省を迫り、九月号も既に『MICHAEL』という表紙で印刷されていたのを、元通り『GLA』に戻させたのであった。

宗教法人名も「GLA」から「ミカエル教団」と変更することになっていた。

そして、浅草のGLAのビルも全体をオレンジ色に塗りつぶし、ビルの壁面に「MLA」と書く計画が既に出来ていた。

それを知った私は当時の関西本部長中谷氏に協力を求めて高橋先生の未亡人である一栄氏に反省を求め、一栄氏が東京の佳子氏に電話されて MLAとせず、GLAと名乗るということになったのである。

そのことが高橋先生の著書を読まれた人達を混乱させ惑わせるという原因になってしまったわけであるが、

(同じGLAであるから、高橋先生の時のGLAであろうと思って入会すると、内容は全く違う)

今にして思えば、高橋佳子氏にはMLAを名乗らせて置いて、私の正法会(後の国際正法協会)をGLAとして置けば、たくさんの人を迷わせないですんだのにと思うことである。

(この事情を 知っている人の氏名を念のために挙げると、中谷義雄、中村勇、林正(故人)、増田三郎、小柴敏雄、それと高橋一栄夫人) 

このような理由によって『MICHAEL』と改題された機関誌は一号のみが発行されたのである。


   ●奇跡の光跡E  に続く

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【2012年5月6日】更新

 

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