奇跡の光跡  16 八起正法先生編
 園頭師「亡くなって二カ月後の宮崎県青島国民宿舎での研修会は、佳子氏の指導によって東京の若い講師達が指導したわけで、私は西日本本部長としてはなんにも権限は与えられず傍観するだけでした。

研修ではなくて全部遊び。

林正氏とA氏のこの二人は佳子氏から「ピンクレディーの真似をしろ」と命ぜられて、髭面に白粉をつけて膝までの短ズボンを穿いて、毛ずねをむき出しにした足を跳ね上げて踊りました。

 「いい年をして、なんであなた達はそんなぶざまな真似をするのか」、と私はいったのでしたが、

「高橋先生のお嬢さんのいわれることですから、仕方がないんですねん」という答えが返ってきました。
私は家内に、一栄夫人と佳子氏の指導は間違っている、といつもいっていました。

ところが、家内は、高橋先生の奥さんであり、お嬢さんである人が、そんなに悪い筈はないといっていましたので、それで家内を研修会に連れて行ったわけです。

 林、A両氏がピンクレディをやらされた後で、一栄未亡人が出てきて、裾の長いひらひらした服を着て踊って、会場一杯の人達に投げキッスをされた。

家内の隣りにいた熊本から来た青年が「あれが二カ月前に夫を亡くしたという人のやることですかね」と言って、憤然として帰っていったというのです。
ところが大半の研修会参加者は、「ああ、面白かった」と拍手。
考えてみて下さい。

たった二カ月前に高橋先生が亡くなられたばかりですよ、歌ったり踊ったりできますか。
厳粛に教えを学ぶべきことを誓わなければならない時です。
林正氏とA氏がピンクレディの真似をしましたから、今度は私に「電線音頭」を踊らせようというわけで、マイクで 「これから園頭先生の電線音頭があります」と放送しました。

人間はその場所によって、やってよいことと、やっていけないことがあります。
私はそんな会場へは顔も出したくなかったから、部屋で一人、本を読んでいました。
そうしたら萩原君が「出番です」といって来ましたので、「わしを誰だと思っているんだ」と追い返しました。

こんな状態でしたから天が味方する筈もありません。

佳子氏が禅定の指導をするというので、夜、浜辺へ出ました。出てみんなそれぞれ座って、さあこれから禅定という時に、まさしく一天にわかにかき曇って大雨となりました。」、と。

 一天にわかに…だったようだが、信次師も講演の中で、よく言っている。

「雨はなるべく降ってほしくないものですから、昨夜は大分、風を吹かせました」、と。台風、雨、風などの自然現象と考えられているものは自然霊の支配下にあるので、これをコントロールして信次師は天候も自由自在だった。佳子氏の場合は大雨に…」


奇跡の光跡  17 八起正法先生編
 九月

 信次師亡き後、GLAの宗教法人としてのアイデンティティを求めて最高会議が開かれた。

会長高橋一栄、主宰高橋佳子(日大二年生、二十歳)、GLA東京本部長小柴敏雄、三宝出版社長堀田和成、GLA関西本部長中谷義雄、GLA西日本本部長園頭広周、GLA総合本部佐藤要、GLA総合本部高橋武、オブザーバーとしてGLA中京本部事務局長谷口健彦氏らを加え、これを「首脳者会議」として運営して行くことに決定。

 しかし、首脳者会議が開かれたのは、この九月一回のみだった。

主宰で、信次師の長女・高橋佳子氏は昭和三十一年十月二十四日生まれ、東京都立九段高校を経て、この時、日本大学文学部哲学科に在学中であった。

佳子氏は高校時代はフォークソングのサークルに属していた。


 十月

 GLA総合本部の理事とGLA関西本部の理事との間に、組織上の対立が起る。

対立の原因はGLA総合本部の前事務局長高橋武氏の跡を受けて事務局長に就任した佐藤要氏がGLA関西本部を解散の上、関西本部の財産等を全て、総合本部に吸収するという案を提出したことにあった。

これに対して関西本部は、昭和四十六年に信次師に集団帰依した時、母型団体であった「瑞法会」を解散して、組織も財産も全てGLAに併合を信次師に申し出た。

しかし、申し出を断っている。「いや、そうすべきではない。もし、一つにした時、東京本部が駄目となったら関西本部も駄目になるので、東京と一つにはしない方が良い」という信次師の当時の方針をあげ、併合吸収することは信次師の意志に反する、と対抗した。

 一方、高橋一栄会長は、西日本本部長園頭広周氏に手紙で次の様に通告、「東京の理事と関西の理事との調和を図ることが先決となった。これからは東京と関西の理事のみで「会」を持つ。あなたは西日本を委せるので、西日本を盛んにして下さい」と。

 園頭師は記述される。「東京の講師達が、実は関西本部の金と財産をねらっている。」

このことは後にミカエル事件が起った後で、関西本部は合流するのであるが、その目的が財産にあると気づいたとたん、瑞法会時代の自分達がつくった財産を、むざむざ東京本部に取られてなるものかと考えた講師達が、さらにGLAから脱退して財産を守るという、まことに浅ましい事件となった。

その関西の講師達は私に言った。「関西本部の財産をどうするか、その分け前が決まるまでは講師をやめるわけにゆきません」と。

 私は講師達の腹の中を見透していたから、ミカエル事件が起った後、何回か関西本部の事務局長増田氏から騙された風を装っていた。

これ以上は利用されないぞと思った時、「あなたはいつまで私を騙そうと思っているのか、あなたの手の内は全部わかっている。あなた達は高橋先生の正法はどうでもいいと思っているんだ。財産がめあてだろう」といったら、私の気迫に呑まれたのか、正直に「そうです」といった。」、と。

 



奇跡の光跡  18 八起正法先生編
十月、鹿児島の霧島にて研修会

十二月

 中京地区の研修会の帰りに、堀田和成氏と渡辺泰男氏の会話の中から 渡辺泰男氏

「所沢でやっている私の班座の近況や、アインシュタイン博士のメッセージのお話になりました。

堀田先生もよく覚えていらっしゃって、あれは確かドイツ語と英語でちゃんぽんに語られていて、テープにとってあるはずです。

その後誰も忙しさにまぎれて、解読しようとしていてできていませんが、確か高守先生(私と同じ昭和四十七年に正法に帰依された方で、同年次に帰依した関係で私とは大変仲がよかった。月刊『エコノミスト』の編集長をされていたが、高橋先生に懇望されて三宝出版の編集長になられた)が保管されているはずですよ、とおっしゃいました」、と。 
                               
 昭和五十一年当時、ブラジルには、サンパウロ在住のH・S氏(元・生長の家講師)を中心に、六百名ほどの会員がいた。

 西日本本部が設立された昭和五十年九月以降、西日本本部よりブラジルに高橋師の著書が千冊送られた。

以来、「GLA」誌が東京本部より毎月発送されていたが、信次師の昇天後、GLA東京本部は発送を停止したために、ブラジルのGLAは自然消滅してしまった。

 昭和五十二年(一九六八年) 二月

 園頭西日本本部長は、西日本の正法教化活動を隆盛させるには、九州にも研修道場の必要性を痛感していたが、昭和五十一年十月頃、福岡市の近郊、二日市に日蓮宗の研修道場が売りに出されていることを知った。

九州の会員が一様に考えていた道場設立を、園頭師は、九州各県の支部長会議に計り、賛同を得たので、東京本部が半分、残りの半分は九州で寄付金を募るという資金調達計画のもとに買収の交渉は始められた。

買収内訳は土地千百坪、建物百三十坪、少し手を入れればすぐに使えるものであった。 
周辺地価十万円ほどであったが、坪四万六千円で買収額五千万円建物は評価せずということになった。

改造費千万円を計上した総額六千万円を東京本部、西日本本部の折半となる。昭和五十二年二月末に登記終了。     



奇跡の光跡  19 八起正法先生編
 昭和五十二年三月五日

突然、会議が開かれることになる。 

会議には、これまでのGLAとは全く関係のなかったSF作家の平井和正氏が同席。突然の平井氏の出席に異和感を覚えた長老幹部もいた。

その席上で、主宰の高橋佳子氏は「ミカエルは起つ、私の背後にはミカエル軍団が既に出来ている。私は東京本部はつぶしてもかまわない。ついてくる者だけついて来なさい」と、宣言。

これに対して断乎として反対したのが関西本部長中谷義雄氏、西日本本部長園頭広周師、理事の中村勇氏と、観音寺住職村上氏の四人であったという。

しかし、大半の人達は「正師・信次先生の娘さんだから」という理由で容認しているというのが現実だった。                            

〈ミカエル軍団とは何か〉                                 
 ミカエル軍団とはSF作家の平井和正氏が高橋佳子氏に接近、小松左京氏等と会談させる等した。

佳子氏は、そのような人達を総称して「ミカエル軍団」、と呼んだ。平井和正氏は、それまではGLAには全く関係のなかった人であるが会議に出席、その内にGLAを脱退してしまうが、「小松左京氏が佳子氏の支持者だったとは思えない」、と園頭師は書いている。

その席上、佳子氏は、「光の天使ガブリエルが今、ここに来ています。その言葉を伝えます」と口上、ガブリエルの通信を伝えた。

生前、信次師は園頭師の過去世はイエスの時代のガブリエルであったと言い残したが、その「ガブリエルが今、ここに来ている」と列席者に佳子氏は告げたのである。

確かに、ガブリエルであった園頭師が同席していたのだから、それはそれでよかったのだが、あたかもガブリエルの霊が佳子氏に降霊し、通信を送ったかのように偽証したというのである。

出席者の中には、それはニセモノであると観識した人もいたが、園頭師は恩義ある正師の娘佳子氏が、大変なことを言い出したぞと心を痛めるのだった。                                
 
 園頭広周著、『園頭広周書簡集』(上・下)がある。
この本は、園頭師が湘南地方のある人を指導者になすべく教育をしようと、手紙で書き続けられたものである。

ところが、「ミカエル事件」が起って二カ月程たった頃、「先生は悪魔だそうですので、悪魔が書いたものを持っていると、いいこともありませんのでお返しします」という手紙とともにファイルされて、全部送り返された。

それをマトメて園頭師は平成元年に出版。その時々の日付がある。

色々な記録がある。信次師をめぐるGLAの貴重な記録になった。 


奇跡の光跡  20 八起正法先生編
 
三月九日付の園頭師の書簡の中から  

                               
 合掌、五日、ミカエル宣言があって、六日十五時帰宅しました。東京本部の理事会で、佳子氏が、「信次先生が亡くなられた時点でどうして私を主宰として立てなかったのですか」といわれた時の見幕は異様なものでした。 

東京本部の問題点は指導力のないことです。昨年九月、追悼講演会の前日の本部長会議の時私が提出した意見は、堀田和成氏を先頭に全理事がつぶしてしまいました。

のちのちの参考となるために、関西本部の林正事務局長に「堀田氏の意見はGLAをつぶすものだ」という手紙を出しておきました。

 佳子氏は「GLAはつぶしてもかまわない。私の背後にはミカエル軍団がいる」といっていますが、ミカエル軍団というのは、小松左京氏を頂点とするSF作家群のことですが、

小松左京氏と佳子氏を引き合わせたのが平井和正氏で、ただ一回会っただけで小松左京氏が佳子氏を全面的に支持するとも思われず、なんらの宗教体験も持たない、社会経験もない大学生が、高橋先生の存命中ミカエルの憑り代(よりしろ)とされただけであるのに、

自分を「ミカエル」と誇張し、威猛気(いたけだけ)に「誓え」といった空気は尋常ではなく、

しかも、中学生の時に、村上宥快氏の観音寺で「私の過去世は卑弥呼でありましたといっていた人、そして、昭和四十九年の宮崎の青島国民宿舎での青年研修会でも卑弥呼であったといった人が、どうして「ミカエル」になることができるのか、全く演出としか思えません。


<中略>小松左京氏が、「自分達が指導をうけられそうなGLAの講師はいない」といったということを聞きました。

<中略>ともかく思想、哲学の貧困な人達が多すぎます。哲学の裏づけのない宗教は邪教ですが、また、宗教と道徳の違いも知らない宗教家がいるのは困りものです。



   ●奇跡の光跡D  に続く

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【2012年5月6日】更新

 

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