奇跡の光跡 11 八起正法先生編 |
信次師からの意識による最後の霊的通信 「アナタ達ハ、自分ノ使命ヲ果シナサイ。 コレカラ、ドノ様ナ事ガアッテモ心ヲ動カシテハイケマセン。 私ガアナタタチノ心ノ中ニ生キ続ケテイル事ヲ知リナサイ。 私ノ地上ノ生命ハ間モナク終リマス。 然シ悲しシンデハイケマセン。 自分ノ心ノ中ニシッカリト法灯ヲトモシテイキナサイ。 コレカラハアナタタチノ本当ノ使命ヲ果ストキデス。 <中略> アナタタチハ、自分ノ心ヲ作リナサイ。 自分ノ心ノ中ノサマザマナ誤リヲ正シ真実ノ自分ヲ作リ、ソシテソノ愛ヲ拡メテユクノデス。 コレガ私ノアナタ方ヘノ最期ノ言葉デス。 」 そして、園頭師は、信次師の昇天についてどう書いているか要約しよう。 「信次師は二十五日、自ら予言されていた通り四十八歳で昇天された。 その二日前、即ち二十三日、とにかく上京してほしい、理由は言えないという電話で園頭師は上京する。 その時、既に信次師は昏睡状態だった。八起(やおき)ビルに集められたのは、当時のGLA東京本部の理事と、GLA関西本部の理事三人と、当時GLA西日本本部長の園頭師であり、その外に当然、一栄夫人、佳子氏、実弟の興和氏がいた。 人は死ぬ時は、たとえどこにいても自分の家に帰って死にたいと思うものである。 なのに信次師は、一週間前に八起ビルに移って、いつも使っていた部屋に寝ていた。園頭師は、二十四日の夜も一睡もせず、信次師が昇天した後のことを考えていた。 二十五日の朝になって実弟の興和氏が「サウナ風呂にでも」と勧めた。幹部の一人は 「そうさしてもらいましょうか」と立ち上った。 偉大なる師の昇天を前にして何んと不謹慎なと思った。 園頭師は一人別な行動をとった。 これまで、自分の生活の基盤、活動の基盤が変わって、新しい決意をもって行動を開始しなければならない時に、いつも古い靴をすてて新しい靴をはいた。 他の講師達はサウナ風呂に行くといって出たのに、師は一人靴屋へ走った。 新しい靴をはいて帰ってきて間もなく信次師は昇天した、と。 |
奇跡の光跡 12 八起正法先生編 |
『 偉大なる出家 』 園頭広周 「キリストの復活と同じような奇跡が起ることを念じつづけたが、私達の祈りは空しかった。 高橋先生の肉体はその酷使によって、肉体生理の限界を越えて修復不可能になっていたのである。 私はそこに如来の慈悲に溢れた崇高な死を見た。 自分の肉体の最後のひと呼吸までをも衆生のために捧げ尽されたのであった。自らのためには生きられなかったのである。 求める人があれば、既に限界を越えている肉体を酷使して「法」を説きに行かれたのである。今から二五〇〇年前、インドでは釈尊は二十九歳の時に出家された。 私はなぜ今回は高橋先生が死の一週間前に大森の自宅を出られたかを考えた。その時、私の頭にひらめいたのは「これが出家だ」ということであった。 「偉大なる出家だ」私がなぜ大森の自宅を出られたのかを考え始めて一分もしないうちに、天からの声を聞いた。 インドの時の出家は二十九歳であったが、今回は四十八歳の死の直前、やはり出家されたのであった。 「偉大な出家だ」天からの声を聞いたとたん、高橋先生の肉体は黄金色に輝き、その瞬間、高橋先生の黄金の姿が空間に見えた。 しかし、瞬時にしてその姿も消え、そこには普通の人の死と変わらない姿があった。<中略> そうだとするならばなぜ高橋先生は、いよいよという時になって自宅を出られたのであろうか。 私はそこに「偉大なる出家」を見たのである。われわれはこの地上を去る時、この地上のなにものにも執着してはならないことを教えられた。 金や物や地位、名誉だけでなく、人に対しても執着してはならないのである。<中略> 高橋先生の慈悲は、全人類に遍ねくゆき渡ると説かれてきたように、家族だけを愛されたのではないのである。 もし、家族だけを愛されたと考える人があれば、それは高橋信次先生を、そうして釈尊をも歪曲するものである。 高橋信次先生が大森の自宅で亡くなられるということになると、それは高橋家の人の死という印象が強くなって、高橋先生が説かれた「正法」までが高橋家のものとして私物化される恐れがある。 高橋先生が説かれた「正法」も、高橋先生の肉体も、高橋家のものとして私物化してはならないのである。<中略> だが、高橋先生は全人類の師であって、単に高橋という一氏族に属される方ではなかった。 「自分は高橋という一氏族に所属する人間ではない。わが肉体も、わが魂も、すべては全人類のものである」、と。 高橋信次先生の「偉大なる出家」は、「正法」は親子夫婦等の血縁に執着してはならず、血縁はこの地上に肉体を持つ時の手続きに過ぎず、血縁を超越してそれに囚われずに正法を見る(正しく見る)ことを教えられたのであった。 月刊『正法』 |
奇跡の光跡 13 八起正法先生編 |
信次師の病因は過度の疲労からくる肝臓と腎臓にあった(註・園頭)のである。 天は、この世に、三億六千五百年前の七大天使とともに飛来したエル・ランティ。モーゼ 釈迦 イエスを分身に持つ「高橋信次」を遣わした。 四十八歳の生涯を終えるまでの八年間にわたり、普遍的な神理・正法を人類に説き、昇天した。 「正法はアメリカに拡がり、その後、逆に日本に帰ってくる。そして今世紀末には全世界の二十%が、正法に帰依する」と予言した。 昭和四十年代の中頃には「今世紀末には、全人類の十パーセントが正法に帰依する」と言っていたが、昇天する一カ月前頃から「全人類の二十パーセントが帰依する」と訂正している。 そして、昇天する一年位前から、「今日は何を話しましょうか」と、伝えるべき、全ての神理を説き終った姿がそこにあったという。 そして、「もはや、天上界から手を打たねばならなくなった」と、世界の情勢を睨み、地上界ユートピアの建設に心を馳せ、昇天した。 信次師は四百六十余件の特許を有する超一流の科学者でもあった。高橋信次師は、宇宙の神理・正法の流布拡大の行末を楽しみ、天上界より見守る。まさしく、「光り(正法)は東方より出て世界を照らす」、のである。 ※写真は高橋信次師の遺影の前で別れを述べる園頭広周師 |
奇跡の光跡 14 八起正法先生編 |
(その後のGLA 信次師の後はどうなったか) 高橋信次師亡き後、宗教法人GLAは混乱と分裂の坂道を転がり始め、日本の宗教史上、類を見ないほどの特異な事件となった。 昭和五十一年(一九七六)六月二十五日 信次師の昇天。 六月二十七日〜二十九日南紀白浜にて研修会 渡辺泰男氏は次のように記述している。 「白浜の研修会には、大久保、波場という同僚の講師と私の三人で本部から参加した。 二日目の午前中の、本来なら高橋先生がなさる講演のプログラムを、私は先生になり代って務めさせていただいた。 研修会も無事済ませて帰ってくると、七月十日に青山葬儀所で本葬が行われる事に決まっていた。 本葬が終るとすぐ関西本部の、岸青年部長と同道して和歌山へ直行した。これは先生の生前から予定されていたもので、和歌山県の県民公会堂のようなところで行われる大講演会に行ってほしいとのことであった。 演題は先生のご生前だったら、あつかましくて到底選ぶことをしなかったと思うが、「心の原点」という題にした。」と。 七月十日 東京港区青山の葬儀所に約六千人が参集した。 祭壇の中央には、剣道衣をつけ、あぐらをかいた信次師の全身像が大きくかかげられたが、この写真(この項の一番最初にも掲載)は、昭和四十八年九月九日の長野県志賀高原の一時間ほどわけ入った場所で、ある青年がとった素人写真であった。 |
奇跡の光跡 15 八起正法先生編 |
園頭師は次のように記述している。 「本葬が終って、先生のご遺骨のお供をして、大森の自宅へ行きました。 一栄先生が「これからよろしくお願いします」と言われた時、佳子さんに高橋先生の霊が出られ、「あなた達は今、みな心を一つにしている。その心を忘れてはならない。絶対に分裂することがあってはならない。今、あなた達は心を一つにしているが、なぜ私が生きていた時にそのような心を一つにしてくれなかったのだ」と言われました。 みんな厳粛な気持ちで聞いて、恐れ入ったのでした。 私は高橋先生が「私を信ぜよ」となぜ言われないのか不思議に思っていました。 ところが今年になってから、「私を信ぜよ。私は光であり、法である」と言われるようになり、びっくりしたのでした。それがこのようなことになることだったのだとは、今になって知ることです。」、と。 告別式が終った後、八起ビルに於いて「今後のGLAをどのようにして行くか」という協議が行なわれた。 それはどのような内容だったのかというと、「園頭氏が中心になり長老会議を開き、当時大学生であった佳子氏が卒業ののち、一人前の宗教家にするために外国にも修業にやり、会長は高橋一栄氏に。 また、一栄氏は園頭師に「今後共、よろしくご指導下さい。 今後あなたもGLA誌に書いて下さい」、と公言し、信次師の兄弟、親戚の人も諒解したのにその機会は与えられなかった、と園頭師は書いた。 七月十一日 本葬の翌日、会議が開かる。「最高首脳者会議を認定、妻一栄氏を補佐する」というものであった。 関西本部長・中谷義雄、三宝出版社社長・堀田和成、東京本部長・小柴敏雄、弁護士・高橋武(信次師には関係のない人)、西日本本部長・園頭広周、事務局長・佐藤要の各氏をメンバーとした。 次回は八月十一日、九月十八日(追悼講演会)と決定さる。 |
●奇跡の光跡C に続く
更新情報・おしらせ
【2012年5月6日】更新