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正法と哲学の違い


哲学と正法の違い 
ある青年が、友人二人と次のような会話をしていました。
・・・<略>「この世には絶対善も、絶対悪もないよな。」
「俺たちが、悪だと思っても、時がたてば善だったってことがあるじゃないか」
「でも、うまく言えないが自分自身が悪だと思えばそれは悪なんじゃねえかな」
「それは、決めつけだ。そう断定するのは傲慢じゃないか」
「本当に、善か悪か判断できるとしたら神様ぐらいなもんだ、所詮人間には絶対善も悪もわからないもんなんだよ」
「おい、それじゃお前、誰からも教えられないのに人殺しや盗みはいけないとわかるよな。
やっぱり善悪は心のなかで分かるものなんじゃないの」
「盗みや殺人が悪なんて教えられなくてもわかるよ。でも、人それぞれ受け止め方の程度があるじゃないか。極端な言い方だが、人を殺しても平気な奴だっているぐらいだしよ。善悪の基準なんて、それぐらい曖昧なもんだよ。」
「でも、心にはその記憶はずっと残って、いつか必ず反省させられる。こころに引っ掛かりが残るんじゃないか。どうして引っかかるかというと、心がそうさせるとしか上手くいえないが」
「いや、俺はそれすらも分からないと思うぜ、心にも引っ掛けないまま死んじまうやつもいるじゃないか」
・・・<略>
話の内容は、もっともらしい哲学のようです。何も答えが分からない禅問答みたいなものです。
ここに心を置き去りにした、知と意のみ先走ることの恐ろしさが分かります。
人間の心を切り離すことの危うさがあるのです。「所詮人間には絶対善も悪も分からない、分かるのは神様だけ」。このように思う人が数多くいます。一見正しいように見えますが本当なんでしょうか。
人間を凡夫としてみて、救われるのは神のご加護しだい、救われるかどうかも神しか分からないという他力信仰のそれに通じることもあります。また、もっともらしいい事を言い思考ゲームを繰り返すリベートにも通じます。
正法にはそのようなことはありません。人間には誰しも良心があります、嘘のつけない自分の心を持っています。その心は、はっきりと真・善・美を区別できます。
心を置き去りにすれば様々な、もっともらしいことがいえます。しかし、永遠に神理には到達できないのです。
絶対善、絶対悪は誰しもが分かります。そのときの思うこと行なうことが、偏りのない中道、調和のものであったかどうかです。
もっと分かりやすく言えば、その思うこと行なうことに愛があったかどうかです。
「極端な言い方だが、人を殺しても平気な奴だっている」
しかし、その人は心が大きく軌道を外れ、慈悲と愛からかけ離れて、自分の過ちに蓋をして逃げているだけです。
それが幸せなはずがありません。
現代には様々な思想があふれ、キリスト教も仏教ですらも哲学化されてしまっています。しかし、心を置き去りに知と意のみ先走るようなものに神理はないのです。
禅問答を永遠に続けても自分の心を悟ることはできません。
嘘のつけない自分の心に常に問う聞くということです。
心がいかに大切か、日々の生活を大切にしていきたいものです


 

更新情報・おしらせ

【2012年5月6日】更新

 

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