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先祖供養に思う


先祖供養に思う

さて、8月15日。(2011年)世間ではお盆です。
ご先祖の墓に赴き、お墓参りをする方も多いことと思います。今年は3月11日に東北地方で未曾有の大災害が発生しました。
私の家族の叔父も津波によりなくなりました。未だにに死んだというう実感がなく、生きているころの元気な姿だけ思い出します。
死者を悼む気持ちに、宗教の別はありません。
なくなった家族が望むことは一体、何なんでしょうか。
立派な戒名をつけてあげることでしょうか。
立派なお墓を買って、立派な戒名をつけたところで死んだ家族が喜ぶのでしょうか。否、そんなことではないはずです。
残された家族が幸せに歩む姿に、死者の魂は安堵するものです。
お金も、お経も必要ないのです。
現代の坊さんが読んでも難解なお経を読んであげたところで、亡くなった魂はその意味を理解することができるでしょうか。できません。
心のないお経は心には響きません。中には、純な心で死者を悼む心で唱えるお経もあることでしょう。
その場合、そのお経は言霊となってきっとあの世の天上界にまで伝わることでしょう。しかし、高いお金を払って坊さんに唱えてもらったお経があの世の天上界まで伝わることがあるのでしょうか。心があるのでしょうか。
供養とは、つまるところ、死者への感謝なのです。そして、生きている人間からの死者へのいたわりなのです。
同時に、死者への祈りは、自分自身の心の反省でもあります。
今の自分ははたして調和ある丸やかな心なのであろうか。自らの心に苦しみがあるなら、まずその苦しみを取り除かなくてはいけません。
自分自身の心を苦しめている、心の三毒というのがあります。相手を恨んだり、怒ったり、妬んだりしてはいないでしょうか。
もし自身が苦しんでいるなら、まず自分自身の迷える魂を救うべきです。そして、もし自分の愛する人が苦しんでいたならば、その苦しみの原因を教えてあげることも、また慈悲なのです。
すべての苦しみの原因は自らの心が作るものだからです。
よく、先祖供養というと憑依とか、先祖の祟りとか言う宗教家がいますので指摘しておきましょう。
憑依という現象があります。
これは、類は友を呼ぶという法則によるものです。自然界においても物質は同じ物質同士で集まる性質があります。
水は水に集まり、水銀は水銀に集まる様を想像してください。
同じように、相手を恨んだり妬んだり怒ったりしたならば、その心はその心を持ったものに通じてしまうのです。引き寄せてしまうとも言えます。それが憑依です。
憑依は怖いものではないのです。自分の心が実は、そうさせていたのです。拝み屋に言って拝んでもらったところで無駄です。
人の心は一念三千といいます。これは、人の心は慈悲愛に通じることもあれば、憎しみ怒りにも通じるという事を示しています。方位磁石の針にも似ています。
それゆえに、私たちは八正道を通じた中道の道の中に、心の羅針盤を持たねばなりません。その羅針盤は自らの心と行いを反省することの中に、きっと見つかることと思います。
悪想念は現実化する、そしてまた悪を引き寄せてしまうということを知ったならば、私たちの生き方も常に正しく歩まなければいけないということです。
先祖供養でお墓を綺麗にしないから、仏壇を粗末にしているから災いが起きる。或いは、家の方位が悪い、先祖の因縁があるからなどと言って人の心を脅迫するものがいます。それだけでなく、お払いや加持祈祷、お守り等の宗教的な儀式の道具を買わせ、浄財と称して金を奪うものがいます。
このようなことを説く者は全て、偽者であるのです。
そのようなことはありません。もし先祖の霊が降りてきて、墓参りをしろ、お供え物をしろなどと言い出すのれあれば、その者は100%悪霊です。救われない魂です。中には動物霊がその霊媒を支配し、もっともらしいことを言ったりするのですが、本人でなければ知らない事を聞いても答えられなかったり、チグハグナことを出だしたりするので直ぐに馬脚を現してしまいます。
心優しき、神仏の光明とともにある霊は、相手に何かを求めたり怖がらせることなど絶対にしないのです。騙されてはいけないのです。
そして一番の先祖供養とは、私たち自身が調和ある生活を送り、常に感謝をし、その姿を肉体先祖に見ていただくことが一番の先祖供養であるということです。
百回のお経より、1つの家族の笑い声です。100万円のお墓より、調和された一家の団欒です。
お払いも、加持祈祷もお金も一切不要なのです。


 



 

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【2012年5月6日】更新

 

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