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心の教会


イエス キリストは教会を作れとは言わなかった 

正法は一人の人間が説いたものではありません。ここに大きな間違いがあります。
正法は、神の心そのものです。大自然の四季、水の姿、この地球は言うなれば神の神殿ですから、そのなかに神は教えられているのです。それゆえに、正法は永遠不変のものです。
それがいつしか、キリストが解いたものが正しい、仏教が正しい、モーセの律法こそが正しいと、もうこうなってしまうと正法でもなんでもなくなってしまうわけです。
一つの教団、組織を作ったときに、既に危うさが生まれてしまいました。正法を学べば、キリストもモーセも釈迦もみな同じであったことを悟ります。
人間の心がいかに大切なものであり、そのうえの反省があり、みな調和を教えていることのどこに違いがあるのでしょうか。
違いなどないはずです。
キリストは汝隣人を愛せよといいましたが、教会を作れとは言いませんでした。釈迦もまた、心の調和の道、慈悲と愛、感謝と報恩の輪廻を解きましたが大仏殿を作れなど一言も言いませんでした。
また二人ともモーセと同じく偶像を崇拝せよなど一言もいいませんでした。また、説法の見返りに金品を要求したことなど一切ありません。
無償の愛が正法です。なぜ、見返りを求める必要があるのでしょうか。また、わけ隔てなくユダヤの律法学者にも貧しい奴隷にもそれぞれがそれぞれの立場でわかりやすく、相手のみ身になって教えを説いていたのでした。
奴隷ならば奴隷の立場となって、律法学者なら学者の立場になって、人の話を相手の立場に立ってよく聞いて、そして相手の立場にたって説いていたのです。
正法に独占などありえないのです。イエスや釈迦が、自分の話を自分の弟子以外に話すななど一言も言ってないはずです。
高橋信次先生も、そのようなことはいっていません。
それゆえに、もし著作権云々で、現代ではビデオテープが無償で閲覧できるようになっていますが、それができないというのは本物ではないのです。
心に苦しみを持つ人の、一つでも助けになればと思えば、そんなことにこだわるのは魔以外の何者でもないことがわかるでしょう。
悪用されるからと上手い方便を使ってごまかすなら、この答えにはなっていません。本当の目的は自らの教団維持の組織の奴隷になった哀れな姿にほかなりません。
無償で公開して何も困るものはありません。困らないはずです。そんなもので浄財と称して貧乏人からもし、一銭でもお金を取ろうものなら、既にそれは正法ではないのです。
また、無償で書籍を全部公開できる時代でしょう。なぜできないのでしょうか。
しかし、心配いりません。正法は滅びることはありません。自らの心のなかに本当の主がいるからです。恐れる必要は何もないのです。
自らの心の中に教会があるからです。
たとえ、書籍がすべて焼き尽くされようと、ビデオテープが永遠になくなろうと恐れる必要はないはずです。
教団を作り、維持することが正法ではありません。教団維持のために正法を商法にするなら、そんなもの無くなってしまったほうがましです。
ここで、紹介させていただく高橋信次先生の姿は無償の愛の人でした。



 

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【2012年5月6日】更新

 

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