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祈願文について


祈願文について

正法は自らの心と行いが基本にあります、自力です。しかし、祈願文と出たものですから、読者の中にはやはり他力本願の拝み宗教じゃないかと、疑問に思われたかたもいるかもしれません。
祈りとは、本来の祈りとはいったい何なんでしょうか。
自らの欲望を祈り念ずることでしょうか。
先祖や仏壇のまえで祈り、念ずることでしょうか。
相手の幸せを祈り、または不治の病人の回復を祈る祈りもあることでしょう。
相手の幸せを祈る心は、あなたのどこから来たものですか。
嘘のつけない自らの心の中に神がいるのではないでしょうか。
そのとき、あなたの心は慈悲に包まれ、行為となって現れるのです。その行為こそ、愛であるといえます。
祈りとは、神仏の心と己の心の対話なのです。
つとめて祈るとき、私たちは今あるすべてに感謝せずにはいられなくなります。
私たちに与えられているすべては神の慈悲でなくて、一体何なのでしょうか。
その慈悲に気がついたなら、自らの行動のあり方も違ってくるはずです。
「ありがとう」と言う事は大事です。しかし、多くの人は言いっぱなしなのです。そうではなくて、感謝に対しては報恩という行為がついてくるはずです。
感謝と報恩は輪廻しているのです。
ところが、これまでの宗教では行為というものを説いていないのです。感謝の祈りは行為となって初めて調和されていきます。
ここまで言って、もうお分かりになったことと思います。
正法の祈りは決して、他力ではないのです。
正法は祈る対象はありません。自らの心の対話なのです。
南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも拝んだって救われません。
救いや慈悲は決して外からはやってきません。
自らの心のスモッグが取り払われたとき、神の光がその人の心に届くのです。その心のスモッグを取り払うことができるのも自分自身しかないということです。
自らが救われる道は、人に愛を施すこと以外に道はないということです。
祈りとは感謝の心であり、自らの心と行いを反省したとき、神の光が自らの心の中に届くことでしょう。


 



 

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【2012年5月6日】更新

 

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