法語集 信仰の指針 1 園頭広周師 |
高橋信次先生のことば 『正法』誌 1980年1月17号より 法 法とは(さんずい)に去ると書く。(さんずい)は水だから、法とは水が去るということになる。 水は低きに流れ、高きに流れることはない。低きに流れることが自然の理に適い、自然の秩序に、したがっている。 水が去ることは、水自体が自然の条理適って生きているので、水の姿は、自然の秩序を表わしている、ということになる。 漢字は自然のさまざまな形を型どってつくられただけに、事物や事象を実によく表わしているといえよう。 さて水は低きに流れることによって、常に、清らかだ。山水の流れは冷たく清い。自然の条理にしたがい、低きに流れるから清く澄んで いる。もし、この水の流れを止め、一ヶ所にとどめるとすれば、水質は汚れ、飲み水の用にはたたなくなってくる。 人の心もこれと同じなのだ。物に執着し、とらわれが多くなると、心は汚れ、ものの用に役立たなくなってくる。 ねたみ、ぐち、そしり、いかり、足ることを知らぬ欲望は執着の表われである。 執着があるから心にこだわりができ、苦しみをつくる。 法とは、心に執着をもたぬことだ。とらわれをつくらぬことである。ここで注意したいことがある。それは、とらわれについてである。 知識が先行すると、とらわれという意味を曲解し、好き勝手なことをしても、とらわれなければよいというふうに考えることである。 ここでいうとらわれとは、物に執着しないことであるが、同時にそれは、法にしたがうことを意味している。ところが人によっては、とらわれなければ、したい放題、やりたい放題にしてよい、というふうに考えてしまう。 とんでもないことである。 法とは秩序だ。循環の秩序をいっている。秩序とは調和であり、中道の心であり、慈悲と愛の神の心をよりどころにして維持されている。 身勝手なことをすれば相手が迷惑をするだろう。その迷惑の波動は、身勝手な人に蹴ね返ってこよう。 本人はとらわれがないといっても、身勝手な波動は発信者に返ってくるのが法の掟である。他力信仰者は、えてしてこういう考えになり勝ちである。 よくよく自戒しなければならない。正法は自力である。その自力も我欲をもとにした自力ではない。八正道という反省をもとにした自力行であることを胆に銘じてほしい。 |
法語集 信仰の指針 2 園頭広周師 |
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法語集 信仰の指針 3 園頭広周師 |
第三章 心の安らぎは神から生まれる。 正しいことの基準は心に安らぎがあるかないかであります。 あなたが、いくら人に波長を合わせてみても、真の心の安らぎが得られないのは神に感謝し神に波長を合わせないからであります。 心の安らぎは、神の光りがあなたの心にとどいた時に生まれるのでありますから、心の安らぎを得るためには神に波長を合わせなければいけないのです。 神に波長を合わせるとき、神の心は光となってあなたの心の中にとどくのです。 正しい指導者は神に波長を合わせることを説くのです。神に感謝し神に波長を合わせることに信仰の根源、信仰の本質があるのです。 ※神の波長とはいかなることか。神の心は慈悲愛にほかならない。それに対して、自己保存は神の心に最もかけ離れたものであることを知らなくてはならない。 第四章 神に祈ること。 暇があったら敬虔な気持ちで謙虚に神に祈りを捧げなさい。 心を神にふりむけて祈るとき瞬時にして神の光はあなたの心の光となって、その心の光の中にあなたの身体は包まれてしまいます。 オーラーというのは、あなたが、どれだけ神に感謝しているかという心の程度によって現わされてくるところの、神からの光なのです。 「神さま、ありがとうございます」と心から唱えられると瞬間的に心に安らぎを覚えられるでしょう。安らぎは、私達の魂に光が伝ってきたときに起る現象なのです。 朝起きた時、夜休む時、仕事を始める時、仕事が終った時、或は道を歩るきながら、祈ろうと思えばいつでも祈ることが出来ます。 正法会の皆さんは、いつも、神に感謝の祈りをする人となってほしいのであります。 ※但し、真の信仰は己自身を失わない祈りである。 己の思念行為の調和無くして、反省無くして神の光はその人には絶対に届かないのである。 それを無視し、暇さえあれば祈ることは他力信仰の何ものでもない。高橋信次師はそのようなことはお説きになられなかったのであるし、ブッダの言葉にもそのような物は無い。 園頭師のこの祈ると言うことは、謙虚たれということを言われたものである。 人は自力信仰となるとともすれば、自分勝手な祈りをはじめ、反省を忘れ、謙虚さを忘れ、常に神が自分の側にいると勘違いをする。それを戒めた言葉だった。 正法は自力信仰である。しかし、それは己の魔に打ち克つことでもある。己の魔に負けた時、謙虚さを忘れた時、人は真の信仰を失う。 常に中道の道を歩む者は謙虚である。増上慢は中道の心からかけ離れ、そこに慈悲愛の心はないのである。 人は自力によってしか真実の神の光は届かないのである。 |
法語集 信仰の指針 4 園頭広周師 |
法 語 1978年10月2号 週のはじめに一章づつよんで、その週の実践目標としてください。目標を持たないところには幸福はありません。 第五章 神は秩序である 秩序ということは、上があり下があり、右があり左があり、すべて物ごとには順序があるということであります。 あの世が、心の段階によって、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界と分かれているのも秩序です。 神に感謝するということは同時に、神の秩序を重んずるということにならないといけないのであります。 ですから、祈りにも秩序のある祈りが必要なので、高橋信次先生は、「大自然の波動と生命」の中につぎのように書いていられます。 「これらの如来(上段階光の大指導霊)、菩薩(上段階光の指導霊)は、神に人々の心を伝える現神であり、その前に、大神霊を拝して(※感謝して)から、調和をよりよくお願いすべきであります。」 秩序のある祈りの仕方が大事であるから、「祈願文」はその秩序の通りに書かれているのであります。 ※心の段階とは光の量の区域なり。光とは神の光そのものを言う。調和度の度合いにより、人それぞれ光の量は異なるものである。人は、自らの光の量を一回り、二回りと大きくすることが生きる使命でもある。 まず、大宇宙大神霊あり。光明の母体なり。 次に、神仏と表裏一体の諸如来諸菩薩あり。 諸天善神、諸天使が神の光明の秩序とともにあり。 己自身は魂の兄弟と共にあることを忘れるべからず。 万物万象は神の光明の現れであることを知れ。 万物万象に感謝の心を忘れず、人は相互関係の中に生きていることを忘れるべからず。 隣人を愛し、魂の兄弟に感謝し、肉体祖先にも感謝の心を忘れるべからず。 祈りの順番とは、人間が相互関係の中で生かされているということを、光明の母体である大宇宙大神霊から始まって、宇宙の秩序の順に表したものである。 人間は神の子である。常に嘘のつけない心の中は神の心と繋がっていることを忘れてはならない。 第六章 正しい宗教指導者とは 正しい宗教指導者は必ず「神に調和せよ」「神に波長を合わせよ」と説くのであります。「神よ信ぜよ」「神に調和せよ」と説かない宗教は邪教であります。 例えば、日本の仏教々団の中には、その教団の、ご開山上人を一所懸命に信じさせて、大宇宙大神霊のことを少しも教えていない教団があります。 これでは正しい宗教、正しい信仰とはいえません。阿弥陀如来とか観世音菩薩を一所懸命に拝んでいても、その心の中に、大自然を創造された大宇宙大神霊に感謝する心がなかったとしたら、それは正しい信仰とはいえないのであります。 あの世が、大神霊、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界という秩序あるしくみになっているということは、お釈迦さまがお説きになって以来、はじめて高橋信次先生が明らかにされたのであります。このことの重大さに気づいていない人が多いのは残念なことであります。 第七章 自然に感謝せよ お釈迦さまは、「なにもかも美しい、生命の躍動が手にとるように感じられてくる。 あの森も、あの河も、町も、地球も、明星も、天体の星にも、神の偉大なる意志の下に、息づいている」と。 この大自然が、神の創造であり、神のからだであることに気づかれ感謝されてから悟りに入られたのであります。 「神さま」と感謝する心の中には、「自然に感謝する」心がないといけません。周囲にはきれいな自然があるのに、その自然の美しさにも気づかずに、夢中で、お百度を踏んでいる人の心の中は、あわれであります。自然破壊を来しました。 |
法語集 信仰の指針 5 園頭広周師 |
第八章 大地に感謝せよ 天を仰いで神に感謝する人はあっても、大地にひれ伏して、大地に感謝するという人は少ないようです。 キリストが、「神よ、神よと呼ぶもの、必ずしも天国に入ることあたわず」といわれたことの中には、神に対する敬虔さ、謙虚さがなければいけないということも教えられたのでありますが、神に対する敬虔さ、謙虚さが欠けては、また正しい指導者とはいえません。 大地も神が創造されたのであり、この大地の上にわれわれは生きているのでありますから、この「大地」にも感謝をしないといけません。神に対する敬虔さ、謙虚さは、大地にひれ伏して感謝する心から生まれてくるものであります。 日本の多くの宗教指導者は、大地に感謝することを忘れているようです。宗教指導者達が、どこか一ヵ所に集まって、大地にひれ伏して神に感謝するという行事をしたら、日本の宗教界も大きく変るでしょう。 ※そして、この地球こそが神の大神殿なのである。その大神殿がありながら、浄財と称して金を集め人間の神殿を作り、神でもなんでもない偶像を祭り敬うとは天と地への冒涜でもある。 地にひれ伏し感謝せよとは、その心を持てと言うことである。 地にひれ伏す者も中には居るが、大事な事は魂のどん底から神へ感謝することである。 法 語 1978年11月3号 法語とは真理のことばであります。あなたがこの法語の意味をよく知り、この通りに実践される時、必ずあなたの上に心の安らぎと幸せをもたらす言葉であります。祈りについての高橋信次先生の言葉を解説いたします。 第九章 祈りとは 祈りは人間が、あの世、天上界(実在界)から地上に肉体を持った時から始まります。 霊のふるさとである天上界では、“祈り”は即行為となっているので、殊更に祈らなくてもよいのです。 思うこと、考えることが、そのまま祈りとなって神仏と調和しているからです。 ところが、人間は肉体を持つと、天上界で持っていた心を忘れ、五官に左右され六根にその身を、心をまかせて煩悩に己れ自身を埋没させ、自我に生きようとします。 「苦しい時の神だのみ」というのは、現実の自分がもうどうにもならなくなった時にどこに救いを求めればよいのかというと、それは「天上界」「あの世」である、ということを知っている本当の自分が、霊のふるさとである天上界、あの世のことを思い出して祈る行為なのであります。 弟十章 虚心に祈ること 自分の慾望からでなくて、そうあることが自分自身の幸せだけでなくて、関係のある周囲のすべての人々の幸せであるということであったら、堂々と祈りなさい。 キリストは、「汝ら神に祈る時、頭に灰をかむり、しかめ顔するな」と祈る時の心のあり方を教えていられます。 これは、「私は憐れなる者であります。この憐れなる私に恵みをお与え下さい」というような、泣きつく祈りはしてはならぬ。そういう実現しないということを教えていられるのであります。 日本人には、信仰深き者は、いつも「わたくしは、あわれなる者であります。罪深き者であります。悲しい者であります。」と、自分をみじめだと思っていないと本当の信仰者ではないと思っている人が沢山ありますが、それはまちがっています。 人間は霊であり神の子であり、過去の転生輪廻の中ですばらしい体験をして、豊かな内在された智慧を持っているのであります。 だから、現実的にはまだ実現してない、いろいろなことが一ぱいあるけれども、実際は内在された豊かな智慧を持つことのすばらしい神の子であるという自覚を持って、それをそのまますなおに認めて祈らないといけないのであります。 |
法語集 信仰の指針Aに続く
更新情報・おしらせ
【2012年5月6日】更新