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悟りの彼岸に


行こう行こう 悟りの彼岸に 1 
有名な般若心経の最後は、行こう行こう悟りの彼岸に悟りへ進もうと呼びかけます。

彼岸の岸、この岸は川岸のことです。日本では小さな河川しかありませんから、川というと泳いでも直ぐ渡れるという印象しかありませんが、当時お釈迦さまが説かれた地のインドの大河はまるで別物です。
隣の対岸に行くのは中々難しいものでした。

当時のお釈迦様の説法とはどのようなものだったのでしょうか。経典を使って、教会の牧師のごとく説法をしていたのでしょうか。

しかし、そのようなことはありませんでした。経典も教科書も必要がありません。お釈迦様は悟られた方です。そんなものは必要ありません。

神理はそのまま言霊となって、法をお説きになられたのでした。

当時のインドの無学文盲の人達に、悟りとはどのようなものか、心の道、法とはどのようなものか、一々文字に起こして説いたわけではありません。

そのような文字に起こしたところで、真実の意味が多くの衆生に伝わったのかと言うと、全く伝わらなかったことでしょう。

お釈迦様は、時に、譬えを用い、言葉にしてもなるべく分かりやすく、かつ言葉には言霊と言って生命が宿ります。直接、人々に話されることによって直接人々の心に語りかけたのでした。

今では、色々な解釈で哲学、学問化した仏教も、最初は案外、分かりやすく衆生に説いたものが、時を経て人々の知と意が加わり分からなくなってしまったものも多いのです。インドでは神話は口伝によってなされてきました。

そのような慣習があるなかで、最初のうち、お釈迦さまが説かれた法も最初は口伝によってなされたものでした。
文字になったのはお釈迦様の死後です。

しかしその後、お釈迦様の説法も文字に成り、更に漢訳されて、日本に来たらお坊さん以外には意味が分からないものになってしましました。

般若心経も今では読むもの、唱えるものになってしまい、その意味を知っているはずのお坊さんでさえも、仏陀は空を説いたのだ、この世は虚しいものだと、お釈迦さまが説かれたものとは全く違うものになってしまいました。

空とは虚しいという意味ではありません。空とは実在を説いたものであり、色即是空空即是色とはこの世とあの世の循環という永遠の生命、それによる進歩と調和を説いたものであります。

図で書くと分かりやすいのですが、円を描いて循環していることが分かります。

肉体を持った、今現在の私達はこの肉体を持って自らの魂をより豊かにすると同時に、人々と手を取り合い相助け合い、補い合いながら地上にユートピアを作るために生きています。

私達の肉体、その五感についてさえも、魂修行をするための菩提であったのです。肉体が無ければ、私達は魂修行をすることができないのです。そして、そのような魂修行の中で豊かになった私達の心は実在の世界に戻ります。

私達が実在界と呼ぶ世界、私達の心の実在の世界です。そして、己の心をもっと丸く豊かにし、やがて地上界に生まれて、また魂修行が始まるのです。

 


行こう行こう 悟りの彼岸に 2 
これは、私達だけではありません。動物植物鉱物、この大宇宙は全て生命であり、全ては生命として循環する事により永遠の営みと永遠の進歩に向け歩んでいるのです。

しかし、本来、自らの心が丸く豊かになって実在界に戻るはずが、多くは自らの魂を傷だらけにして実在界に戻ってきてしまう人が多くいます。
それは何故でしょうか。

本来、魂修行をするための菩提である五感、意思に自らの自己保存が結びついてしまったならば、私達の人生は苦しみの循環を作り上げてしまうことになるのです。

なぜならば、すべては循環するからです。その原因を追究し、修正しない限り、その循環を断ち切ることはできません。

その原因を断ちきるためには、私達は己自身の嘘のつけない心に問わなければならないのです。
ただ、般若心経にはよく意味を理解すれば、そのことを説いていることが分かるのですが、ただ字面だけ追っていては中々その意味が分からないということになってしまいます。

これが文字のみで解釈しようとする危うさでもあります。心で読まなければ、己自身の嘘のつけない心で読まなければ、本当の意味することは分かりません。

私達の己自身の心に問う道、これをお釈迦さまは八正道としてお説きになられました。中道、調和の道です。調和とは神の心、法であります。

悟りの彼岸にはどのようにすれば到達できるのだろう。
それは己自身が、その道を歩むことでしか、悟りの彼岸に、己自身に内在された智慧に到達する事はできないのです。

有名な般若心経でさえも、祈れ、拝め、曼荼羅を崇めよとは説いていないのです。それを拝めばよし、写経もよしとは、全くのナンセンスです。

「 偽りの己とは不毛な土地のようなものだ、けれどもそんな土地ばかりがあるわけではない。
私達がめったに行くことが無い対岸の土地はマンゴやパパイヤが実る豊かな土地もあるのだ。
真実の私達の心は、あのマンゴやパパイヤが実る豊かな豊饒な土地のようなものだ。
好き好んで、不毛な道を歩むより、豊かな土地に行こう、あの彼岸の向こうの豊かな土地に行きましょう。真実の私達の心、悟りの道に行きましょう。 」

そのように分かりやすく説かれたものが、漢文となり、呪文のようになってしまいました。
何も祈れとは説いていないのです。
また、日本では春分、秋分の日もお彼岸といってお墓参りをされる方も多く、これは日本独特のもので、日本では仏教と結びつき慣習となっています。


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この秋分の日、春分の日というのも、太陽が真東から昇り真西に沈む日です。ちょうど、暑さ寒さも彼岸までと言って、この頃には冬の厳しい寒さも、夏の厳しい暑さも和らぎ、春には新芽が芽吹き、秋には豊かな実りがもたらされます。

暑くもなく、寒くもなく、一年の内で最も調和されるのはこの頃です。それはまた、一年は私達の生命の循環、生命の復活と、その生命が終わることによって、新しい生命が生まれるという永遠の循環の営みを私達に教えているのです。

中道、調和です。その調和は循環により成り立っているのです。水、H2O、この水というのも水素と酸素というそれ自体は最も不安定なものが、極端なものが一つになることによって最も安定したものになっています。

さらに水は、固体液体気体、その生命が循環する事によって水としての生命が営まれると同時に、この地上界に滋雨をもたらし調和させているのです。

また、動物植物鉱物は相互関係の中で、お互いがその身を供養し合うことによって、表面的には弱肉強食とも思える世界に見えても、循環の中に調和ある生命の営みを知ることが出来ます。

その営みは一寸の狂いもありません。そこに、大宇宙創造の神の叡智を否定する事はできません。その神の叡智、つまりこの宇宙には心が存在するということです。

物質的に目で見ることはできません。人間の目、五感で神の心を見ることはできません。けれども、だれも否定する事はできません。五感で見ようとして見えない、しかし明らかに存在する。

私達の心もまた同じです。見えません、聞こえません、匂いもありません、障ることなど出来ません。一切は私達の五感で捉えることはできません。けれども、それは私達が五感で捉えようとする時、私達はそれ以上のことを知ることはできないのです。

しかし、私達の心は明らかに実在します。それは、私達の誰もが人には嘘を付けても自分には嘘をつけないことからも分かります。誰も否定する事はできません。

その嘘のつけない私達の心は、常に中道の道、調和の道を私達に示します。
それは神の心は調和であり、更に、調和とは慈悲愛の心そのものであり、私達は神の子として何人もその心を持っているのです。

その私達の心は、過去現在未来、全てが心のテープレコードに記録されているのです。
私達は永遠の生命であるからこそ、私達の魂の記録は全て記録され、更に今思っていること、行っていることも記録され続けているのです。

もし、魂の実在を否定するというのなら、反省など全くの無駄です。この世限りの一生ですから、自己保存の追及。人はどうでも自分さえ良ければという生き方になってしまいます。
人に嘘をつくだけでなく、自分の心に嘘をつくことができます。でも、万に一人もそのような人間はいません。

なぜ、心に嘘がつけないのかというと、それこそが魂の実在の証明でもあるのです。
それは永遠の生命であるからこそ、本来の慈悲愛の心に背いた想念行為に対しては己自身が反省を求めるのです。


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もし、自分が引き起こした罪を良心の呵責もないという人が居るのならば、それは偽りの我です。自己逃避でしかありません。

どんなに逃げても、たとえ宇宙の果てまで逃げたとしても、自分の心から逃れることは出来ません。

己自身の責任は、己自身が必ず取らなければならないのです。今世が駄目なら、来世で、来世で駄目なら再来世で、自分の心の修正が出来なければ永遠に続きます。

そんな状態で実在界に戻っても、実在界で今以上のもっと大変な目にあって、嫌というほど己の過ちと向かい合わなければならなくなるのです。

しかし、本来この地上界は、私達の肉体というものは魂修行をするための菩提であったのです。肉体が無ければ、私達は魂修行をすることが出来ません。

この地上界の修行で己の魂の器を一回り大きくして戻るというのが本当の道であるのです。
そして、実在界の生活というのも、この地上界での生活、何を思いどのように行動したかが最優先に影響します。

この地上界の1年はあの世、実在界の100年分にも匹敵します。それだけに、一日一生、今のこの生活を、想うこと行うことを正しくしなければならないということです。

それは同時に、それだけこの世での修行は喜びが多いということでもあります。人間はいつでも自分自身を変えることが出来るのです。変えることが出来ない人はいません。

全ての人がそれだけに、己の心を修正し、暗いスモッグを取り払い、己自身の救いの彼岸に到達する事ができるのです。それは、まさに、行こう行こう悟りの彼岸にということです。

悟りの彼岸とは、このように心の実在、あの世の実在を抜きにして語れるものではないということがよく分かります。
それが、いまや、空とは空っぽの空であり、虚しいことだというのはナンセンスです。さらには、仏教は神の実在を否定するという人に至っては、もはや仏教の生命はそこにはありません。

神の実在を否定して、心の実在、あの世の実在を否定してパニャ―パラミッタという言葉も本来理解できるはずもないのです。

更には、空というものだから、己の心を置き去りにして心を修正することもなく止観と称して瞑想する人もいます。これでは自分の心が死んでいます。止観ではなく死観です。

そんな状態で瞑想する事は甚だ危険です。悟りとはそのような事で得られることではありません。

一日一生、今この瞬間を中道の物差しで調和ある営みをし、感謝と報恩の循環の中でより豊かな魂経験を積み、常に己の想念行為の修正をする中で真の光明が得られるのです。

真の止観とは、己自身の一切の自己保存から離れ、中道の心に戻り、真我なる心で偽りの己を正しく観るということです。自分の心を無くしてはできないものです。


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真の光明は、己の心の内側から得られるものです。己自身の心には神の子の生命として、あの太陽が熱光のエネルギーを無償で与え続けているかのごとく、私達の心にも神の子の生命として慈悲愛という神の心の太陽が存在しています。

その慈悲愛という神の光を遮ってしまうのは、他ならぬ私達自身の自己保存という名の悪であるのです。

自分さえよければ他はどうでもいいという自己保存が、己自身の心にスモッグを造り、苦しみの人生航路を造ってしまっていたのです。

それを修正することしか、私達の救いはありません。私達の心の塵、垢、言うなれば心に出来たスモッグを己自身が修正する事が真の悟りへの道であるということです。

頭を空っぽにして無我の境地と称して瞑想する事が反省ではありません。己自身の嘘のつけない心と向き合うこと、己自身が自己保存から離れ、過去の想念行為を振り返り、過ちを正して行くこと。

これは思うだけではできません。行為が伴わなければ、正法の反省ではありません。

行為に結びつく反省とはどのようなものか。それは良いところは明日も伸ばそう、悪いところは勇気を持ってこれを修正するということです。

お釈迦様がお説きになられた八正道の正定、イエス様のお説きになられた、悔い改めるということは実はそのことを説いたものです。

自然と行為にならなければ本物ではありません。今の生活を等閑にせよとは一言も言っていません。それよりか、もっと今の生活を大事にせよと説いているのです。

反省とはどこか暗い、陰気な感じを持っているという人は、今まで正しい反省というのが分からなかったからだと思うのです。
反省とは己の心を明るくするものです。そして、己自身の人生をも変えるものなのです。

瞑想的反省とは、中道の尺度、調和という心を抜きにしてはできません。その尺度を失えば、人は己の心を正しく反省することなど出来なくなってしまうのです。

それを知らずに、たとえ、頭を空っぽにして瞑想して、神の声が聞こえたとしても、それが神かどうかは分かりません。100%悪霊です。

そのような人は心が不安定で、色心は不二ですから、常に顔色が悪く、或いは極端に肥満になっていたり、やせ細っていたり、家庭、生活に不調和が絶えません。

そのような己自身の心が不調和な状態で、それが神だというのはナンセンスです。
その神の声が聞こえる瞑想とはどのようなものか、その時の心の状態はどうであるのか、その時の自らの周りは調和されているのか、殆どの場合は不調和であることが多いのです。

不調和な心にとりつくものは悪霊以外にはありません。
そのような悪霊を引き寄せてしまう責任は己自身の心にあるのです。その者が瞑想と称するものは瞑想でも何でもないのです。

お釈迦様の死後、座禅瞑想こそ本道であるという人も出てきましたが、このころから仏教は心を忘れ、行作法に重点を置く過ちが出てきてしまったようです。

そんなものはお釈迦さまがお説きになられた正定であるはずもないのです。
よく反省はどのような方法でやると良いのか疑問に思う方も多くいます。

己の嘘のつけに心に問う、聞く。自力であるということ。中道、調和の尺度ということを忘れなければどのような方法でもかまいません。

己自身の心の教師は、他でもなく己自身の心であるのです。自分が一番よくわかっています。

こればかりは、どんな指導者でも直接指導できる方は居ません。たとえ、お釈迦さまが塵を払い、垢を落としなさいと言われたところで、実際にやるのは己自身であり、悟ることができるのも己自身であるということです。

しかし、神の子である人間は誰もが正しい道を己自身の力で歩むことができるのも事実です。

それは心と行いの道です。このようにして見れば般若心経も心行と同じく、心行であるのです。ただし、字面だけ追っていたらその心は分からないのです。


それを知った上で、改めて、


行こう行こう 悟りの彼岸に


更新情報・おしらせ

【2012年5月6日】更新

 

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