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初めて正法を学ぶ方へ 1 
正法は日々の生活の中にあってこそ生きるものです。

あなたが今何かに苦しんでいるならば、その苦しみという矢を真っ先に取り除く道を教えるものです。

苦しみという矢に突き刺さったままであれば、人は己を知るどころでは無いからです。

正法はまず、己の心ありです。

正法は苦しみの矢を抜き払い、さらに真の己自身の生きる目的と使命を歩む道です。

それは自力であります。

そして、自分の人生は己自身が人生の最良の教師であることをよく知ってください。私達は人には嘘をつけても、自分には嘘をつけません。その、嘘のつけない自分の心を信じることです。
人では無いのです。自分の人生を誰になり変わって歩むことはできないからです。

正法は反省を説きます。反省とは八正道の中の正定のことであり、止観という、まず立ち止まって、善意の第三者の立場になって、嘘のつけない己の心で観るということを説いています。

反省は、人間の“心の自由性”を束縛しては正しい反省はできません。
初めての方はこのことをよく心得てください。

人間の日々の想念活動は無限大です。心の針は、天国も地獄も目まぐるしく動き続けています。この世は、天国と地獄の合わさった中間定点です。人の心も同じように、地獄という影の部分も投影されるように出来ています。

正しい心の物差しがなければ、私達は道を間違えてしまうというのもこの事からも分かりにます。

正しい心の物差しとは、嘘のつけない己の心に問う、聞くということです。
八正道の道は、日常生活を蔑にすることはできません。そして、その中にしか正しい反省、正しい禅定というものもありません。日常生活にあってこそ本物です。

先ほど、人間の心の自由性を束縛しては正しい反省はできないと申しましたのは、人間の心は神の子として、本来、宇宙大に広く、丸く、大きなものです。

空を見て、星空を見て、宇宙の広さを実感できるということは、私達の心が本来宇宙よりも広いからこそ実感することが出来るからです。
そして、そのように広い、大きな私達の心は自由に物を作り想像するという神から与えられた神の子として神性・仏性を持っています。

心の自由が、神性・仏性である以上、心の自由を束縛する事は、外部から戒律という形、あるいは方法論という形で束縛する事も、内部から、心の内側から勝手に自分の心に決めごとを作って束縛する事も、いずれも極端であり、悟りからは遠ざかるものになります。

まず、己の心を大切にすることです。

 


初めて正法を学ぶ方へ 2
嘘のつけない自分の心を信じ、広い自分の心を自覚し、心の自由性は実は神の子人間として神から与えられたものであると知ったならば、その自由にも実は重大な責任が伴っていたことを自覚するはずです。

そして、一人一人が自分の心の王国の絶対の支配者は自分自身であることを自覚されて、初めて本当の道が始まるのです。

どうか、そのことをよく心得てください。

ですから、何かの会に入ることが正法ではありませんし、ましてや心の何たるかが分からない人間に師事することも正法ではありません。

心の何たるかが分からない指導者ということですが、反省を説かない指導者は本物ではありませんし、霊道を得るために正法があるのではないのです。間違えてはいけません。

或いは、極端な方法論や戒律というものに重点を置いたものならばこれも違うものになります。

方法論と言いますと、天台智ギは止観をお説きになられたのですが、方法論としてまとめたのは弟子であり、方法論を説いたのではありません。
良く読めば、あくまでも、人の心について説かれたものです。
その上で正しい反省、禅定の方法を説いたことを、私達は表面ではなくその心を汲まなければなりません。

正しい反省の指導も禅定の指導も出来たのは、後にも先にも現生のブッタ、高橋信次師しかおられません。また、ごく一部の今は亡くなられた高弟の方々です。それ以外に今現在誰もいません。

霊道現象というのも、現証として現されたものであり、禅定は霊感を導き出すものではないのです。

紙に反省の内容を書かせて見させたというのも、師が、それが出来たからであります。

けれども、師が一番指導されたのは、嘘のつけない己の心です。
本来なら、指導など必要がないはずです。

師に甘えてはいけないのです。自分でできる筈なのに、歩ける筈なのに歩けないという人と同じです。
勇気を出して、立ち上がることです。その勇気が自分を変えるのです。

次の師の言葉をよく自らの心に聞かせてください。



初めて正法を学ぶ方へ 3 

『 高橋信次師の言葉 』


「 九〇%の意識、これをインドの当時は、「パニャーパラミター」といっておりました。「内在された偉大な智慧」ともいいますが、これをひもとくにはどのようにしたらよいか、それを私が説いているのです。霊感を呼ぶのではないのです。

自分自身の思うことと行なうことが調和された真実の片寄りのない生活行為の中でこそ、それをひもとくことができるのです。 」


「 まず正しい片寄りのない神理、八正道の根本というものを、己自身の心の物差しとして生活することが第一なのです。
この行が積み重ねられた時に、皆様は初めて己自身を悟り得るのです。 」


「 「止観」、止まって見ることが大事です。
我々人間は一〇%の表面意識で人生航路を歩んでいくために、多くの間違いを犯してしまいます。間違いは、間違いであってよいのです。「過ちは改まるに憚ることなかれ」です。

自分自身の心を、片寄りのない正しい心の物差しでみつめ、間違いがあったならば素直にその間違いを訂正して、「神よ、私の罪を許して下さい。ここを間違いました。

原因はこれこれこういう訳です。今度は絶対にこの間違いは犯しません」という反省、即ち止まって見ることが必要なのです。止まって反省した時に、皆様自身の心の曇りは晴れていくのです。

それを、人々はいろいろと病気をしたり、経済的に不調和になると、藁をもつかむ気持ちになって「どこかで拝んで貰えば救われる」とか、「どこかの宗教に入れば救われる」となる。これはとんでもないことです。なぜならば、そのような原因がどこにあつたか、ということを追及することが一番重要であるからです。 」


「 そして決して他力ではなく自力で実践してこそ、偉大なる神の光はえられるのだということを知ります。

神様をいくら拝んでも無駄です。拝む前に自分の心の曇りを払うことが一番重要なのです。その時に初めて、皆様の心は偉大なる神の光によって満たされ、皆様の魂の兄弟たちがあの世から協力してくれます。 」


嘘のつけない自分の心を信じ、良いことは明日も伸ばし、悪いことは勇気を持ってこれを修正するということであり、反省は心を明るくするものであれ暗くするものではないということをよく心得て置かないといけません。
心を暗くする反省はどこかに間違いがあります。




 

更新情報・おしらせ

【2012年5月6日】更新

 

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