「高橋信次師物語」 真のメシヤの記録 236 八起正法先生編
信次師の病因は、過度の疲労からくる肝臓と腎臓に問題があったのです。

天は、この世に、三億六千五百有余年前の七大天使とともに飛来したエルランティであり、モーゼ 釈迦 イエスを分身に持たれた高橋信次
師を遣わされた。

四十八歳の生涯を終えられるまでの八年間にわたり、普遍的な神理・正法を人類に説かれ、昇天されたのです。

「正法はアメリカに拡がり、その後、逆に日本に帰ってくる。そして今世紀末には全世界の二十%が、正法に帰依する」と予言された。
昭和四十年代の中頃には、
「今世紀末には、全人類の十パーセントが正法に帰依する」、
と言われていたが、昇天される一カ月前頃から
「全人類の二十パーセントが帰依する」、
と訂正されています。

これはどういう意味があるかと申しますと、この意味はエルランティが説かれた正法は、モーゼにはヤーベとして、釈迦には梵天として、イエスにはエホバとして、古神道の天照大神には天つ神として、マホメットにはアラーとして、エルランティがそれぞれの名前で説かれた正法は、現在の地球全人類が六十億人として、その二十パーセントとは、少なく見積もっても実数が十二億人ということでしょうか。

さらに、信次師が昇天される一年位前から、
「今日は何を話しましょうか」と、伝えるべき、全ての神理を説き終えられた姿がそこにあったといいます。

そして、
「もはや、天上界から手を打たねばならなくなった」、
と、世界の情勢を睨み、地上界ユートピアの建設に心を馳せられ、四十八歳九ヶ月の若さでこの世を去られたのである。

高橋信次師は、四百六十余件の特許権を持たれる超一流の科学者でもあって、宇宙の神理・正法の流布拡大の行末を楽しまれ、天上界より見守られるのです。

 まさしく、「光り(正法)は東方より出て世界を照らす」、のです。                                     
 
 
あとがき

高橋信次先生の本を出せたらナーと資料を集め始めたのは、1回目の脳卒中回復後の昭和五十八年のことで、決意したのはリハビリ中のことでした。
そのとき、言葉もハッキリせぬ私の正法講義を黙って聞いてくれたのは年老いた母でした。
それからの記述や取材ノートを見ると色々のことがあったとわかる。高橋先生のことを「高橋信次先生」「高橋先生」「高橋氏」「高橋師」「信次」「信次氏」「信次先生」と、巡り巡って、廻りまわって今回の「信次師」に落ちついた。

これまでには大手出版社へ幾度か原稿を持ち込んでも「宗教がらみのもの」はと、ニベもなかった。

中には費用を折半ならとか色々あったが、五十過ぎの手習いからインターネットにはまってしまった。

ラジオ製作ならお手のものだが、コンピューターは初めてだったので、ホームページ製作ソフトを相手に苦戦の日々だった。

九百万字数の巨大ホームページに肩も痛めたが、ハッカーらしきものにも悩まされ、立ち上げては消され立ち上げては消され、この五年
には数度にのぼった。

一番多かったのは「心行」と「感謝の祈り」だけが消えるのである。よほど都合の悪いのがいるのでしょう。

そのうちには半ば諦めてなされるがままに時を過ごした。
消えたらその内にあげようと考えを変えたら腹も立たなくなった。楽になった。

こうして五年目には五十五万人もの訪問者をいただいた。

そしてその間には、多数の高橋先生の講演ビデオテープを所有される方からテープリストを戴いて、講演日時と演題を添えて内容を濃くさせていただいた。懸命にやっていると「自力の極には他力あり」ということも実感した。

なにくれと力を貸してくださる方が何処かにいられると勇気も湧いている。

二度の脳出血で倒れ、歩きはヨイヨイだが、自転車にも自動車にも乗れ、それも精密なラジオ製作の功なのか不思議にも手だけは残っている。
園頭先生は、三年間体を動かすこともお出来にならず喋りもおできにならなかったが、これも何十年間もの執筆のたまものか指は良く動かされて筆談もお出来になった。

私の名は、「人のカガミになれ」と、素晴らしくも責任のある名前を両親につけていただいた。残された人生、「一丁やれるだけのこと
をやるか!」と考えている。平成十五年五月十六日 合掌

                     以上

                     合唱


●「高橋信次物語」


更新情報・おしらせ

【2012年5月6日】更新

 

inserted by FC2 system