祈願文 園頭広周師による解説1
祈願文 園頭広周師よる祈願文の解説をご紹介させていただきます。

−祈願文 園頭広周師による−

「祈願文」は、禅定する時の祈りとして、また、人のために祈る合、天上界よりの加護をお願いする場合に非常に大事な欠かしてならない「祈りの言葉」なのであるから、一言にして言えば、奇跡を起こす祈りの言葉であり、よくこの意味を会得することである。

    祈願文

祈りとは、神仏と己の心との対話である。同時に、感謝の心が祈りである。神理に適う祈りの心で実践に移る時、神仏の光はわが心身に燦然と輝き、安らぎと調和を与えずにはおかない。

    前文
私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました。
慈悲と愛の心を持って調和を目的とし、人びとと互いに手を取り合って生きて行くことを誓い合いました。
しかるに地上界に生まれ出た私たちは、天上界での神との約束を忘れ、周囲の環境・教育・思想・習慣そして五官に翻弄され、慈悲と愛の心を見失い、今日まで過ごして参りました。今、こうして正法にふれ、過ち多き過去をふりかえると、自己保存、足ることを知らぬ欲望の愚かさに胸がつまる思いです。
神との約束を思い出し、自分を正す反省を毎日行い、心行を心の糧として己の使命を果たして行きます。
願わくば私たちの心に神の光をお与え下さい。仏国土・ユートピアの実現にお力をおかし下さい。

  前文解説
いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通して発生したものなのであろうか。それは、神の意識から、神の子としての我々の意識が離れた時に、親なる神を、神の子である子供が慕うという自然の感情から発したものであり、更に人間が、あの世天上界からこの地上に生を受けた時に、あの世天上界を慕う感情として、何かあると必ず天上界、神を慕わずにはいられない心情が、祈りとして祈らずにはいられない心となって現れたものである。
魂の故郷である天上界では、思うこと、考えることがそのまま祈りとなって神仏と調和していて、祈ることは即行為することであり、行為することが即祈りとなっている。
ところが、人間はこの地上界に肉体を持つと、この肉体が自分であると錯覚して、天上界で持っていた時の全なる心と、それに基づく行為を忘れてしまって自我に生きようとして五官に左右され、六根にその身、その心をまかせてしまう。すると、煩悩という迷い心が起こってきて、本当の自分自身、神より与えられた神の子の意識を埋没させてしまってどうにもならなくなってしまう。すると苦しみが生じ、いろいろ不本意なことが起こってくる。
「苦しい時の神頼み」、自分の考えでなんとかなると思っている間は神を思い、神に祈るということはしないが、もはや自分の力ではどうにもならないとなると、思わず神を思い出し、神に祈る心になる。それは、煩悩に振り回されてどうにもならなくなった人間が、最後は神に頼んだらよくなることを知っている心があるからである。
「人生苦」というものを、ただ苦しみだけとしてとらえて、「苦い、苦しい」といっている間は苦しみが続く。そういう人が多かったから釈尊は、「あなた方は人生は苦だ、生きることは苦しいことだと考えてきたであろう」といって説き出されたのである。
苦しみを苦しみとして、その現象だけにとらわれていると苦しみはなくならない。ではどうしたらその苦しみから解脱することが出来るのであろうか。それは、その苦しみの揚げ句に、神に祈りたくなるその心はどうして起こってくるのであろうかと考え始めるところから苦の解脱は始まるのである。だからして、苦しみが起こってきた時には、その苦しみを苦しみとだけ考えるのをやめて、この苦しみは肉体の煩悩に執着した結果であって、神を忘れ、本当の自分を忘れてしまっていた結果だったということに気づいて、その苦しみは神を思い出させ、本当の自分を思い出させて下さる警告であったと感謝して、ではどうすればよかったのであったかということを反省すると、その苦しみから抜け出すことができるのである。

祈願文 園頭広周師による解説2
「苦しみ」を「苦しみ」とだけ考えて「どうぞこの苦しみを救って下さい」と祈る他力本願の心の中には、いつも苦しみが描かれ想念されているから、自分の心の中に苦しみを描き想念している間はその苦しみはなくならない。今、現れている苦しみは、過去に自分の中に、忘れていた神を思い出して感謝し、本当の神の子の自分の意識を取り戻さなければならないのだということに気づいて、その苦しみは、本当の自分にかえれという警告だったのであると感謝するようになると、その苦しみは自然になくなってくるのである。
なくなるばかりではなくて、その苦しみを見ながら、心の中には感謝の思いがいっぱいであるから、その感謝の明るい心がやがて現象化して幸福がくるのである。こうなることを昔から「禍転じて福と為す」といってきたのである。
「苦しい時の神頼み」というのは、煩悩に振り廻された人間が、最後に求めるものは、己自身の魂のふる里であり、そのふる里こそ、自分を救ってくれるもう一人の自分自身であるということを、無意識のうちに知っているとことから起こってくる無意識の行動なのである。だからして、そういう時に心を内に向けて、もう一人の自分を探し求めることをしないで、心を外に向けてあちこちにお参りなどして他力信仰をしていたのでは一向に問題の解決にならないのである。助けを求める自分と、助けを求められて救いの側に立つ自分とは共に一つであって、救いの側に立つ自分とは「心行」の解脱の中で述べたように、潜在意識を通して潜在意識層に働きかけてくれる守護霊・指導霊である。
本当にその人が反省をして「どうぞ助けて下さい」と真剣に祈ると潜在意識層に働いている守護・指導霊が心の内から囁いて、どうすれば救われるかを教えてくれる。余りにも問題が大きく複雑していて守護・指導霊に力がない場合は、守護・指導霊の求めによって、より高い次元の天使が慈悲と愛の手を差しのべてくれることになっている。
このように「祈り」というものは、自分自身の魂のふる里を思い起こす想念であり、同時に「反省」という、自分自身を改めて見直す立場に立った「祈り」でないと、ただ泣きつくばかりでの祈りでは意味がないし、本当の救いにはならないのである。




祈願文 園頭広周師による解説3
苦しいから助けてほしいというだけでは愛の救いの手は差しのべられない。なぜかというと、今の自分の運命というものは自分自身でつくり出したもので、そうなったのは誰の責任でもない、自分自身の責任だからであって、自分自身がつくり出した責任であるのに、自分はなんにもしないで、誰か外の人が救ってくれるということになったら、その人は悪いことをするばかりで一向に魂は向上しないことになる。
人間は神の子であり、神の子たるに反した行動をした場合は、その分量だけ償うことが神の子としての摂理であって、反省し懺悔して祈る時に、初めて神仏は慈悲と愛を与えてくれるのである。
人間はこの世に肉体を持つと過ちは避けられない。その犯した過ちを修正して救う手段として与えられてあるのが、反省と祈りであり、祈りというものは、このようにして肉体を持った人間が本当の自分自身を知り、本当の自分自身を知ったところから神仏を思い起こす想念として神仏が発生せしめられたのであることを忘れてはならない。
祈りは単に祈ることだけではいけないので、祈りはその祈ったことを行為に示さないと本当の祈りとはならないのである。
唯、口先で祈るだけでは愚痴の繰り返しになり、失敗した自分自身をその都度思い起こし強く印象することになって、神の子としての新しい自分自身を発見し、創造することにならないからである。だからして、祈りには、神の子としての自分を自覚したその心と、神に感謝し、すべてのものに対する感謝の気持ちが祈りにならなければいけないのである。
多くの人は現在与えられてある自分の環境、境遇というものに不満を持ち、こういう環境、境遇に生まれてこなければよかったと思っている。潜在的にそういう不満を持っているから失敗もし不幸にもなるのであるから、現在与えられてある環境、境遇というものに、神が与えて下さった自分自身の魂の最良の修行の場であり、ここを通らずしては魂の向上は絶対にできないのであるという自覚と感謝の心が神に向けられた時に、心の底から真剣な祈りとなってほとばしり出るのである。

祈願文 園頭広周師による解説4
我々は、神の加護と、多くの人々の協力なくしては一時も生きて行けない。自分の運命を天命として、その使命を果たして行くためには、人間はどうしても祈らずにはいられないのが人間である。この祈りの本質というものは変わらないが、このように考えてくると、祈りにも段階があり、各人の心のあり方、調和度、現在与えられてある環境・境遇によって、祈りの内容は一人一人違うことになる。
要するに、祈りの本質とは、祈りは天と地と、神と人間、神と自分とをつなぐ光の架け橋であり、神との対話であるということである。
人は祈った時に、神に心を通ずることができるのである。もっとも実際には、その人が神に向かって祈る時、その祈る心を「よし」と見た守護・指導霊、或いは光の天使達が、その人の問題に対して解決の示唆を与えてくれるのであるが、だから、祈ったことに対する答えは「直観」となってその人の心の中から浮かび上がってくるのである。或いは時として「天からの声」として耳に聞こえてくる場合もある。
この天と地と、神と人間との架け橋である祈りは、各人の心の調和度により、問題の大小により、大きくもなり、小さくもなりするものである。
大きな使命を自覚している者はそれだけ祈ることも大きくなり、また、大きなことの実現には時間もかかることになり、自分のことだけ
で満足している者はそれだけ祈ることも小さくなり、小さいことの現実にはそう大して時間もかからないということになる。
 
  前文「親の恩」
「私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました」
なぜ、前文の一番最初にこの私たちが、この地上に生まれて来たのは両親からであるということが書かれてあるのであるか。
信仰の原点も、道徳の原点も、教育の原点も、すべて私たちが今ここに存在しているのは親があってこそであり、その親と自分との関係を明らかにすることなしには、信仰も道徳も教育も存在し得ないからであります。
親不孝というほどではなくても、親に対する感謝もしないで、「信仰信仰」と走り廻っていたのでは本当の信仰になりません。同じように、まず親に対する感謝の教育をしない教育では本当の教育になりません。即ち「恩」を知るということが人間の道徳の根本ですから、「恩を知らざる人より悪い人はいない」と西洋でも言っていますが、
釈尊は、「世間、出世間の恩に四種あり」と言っていられます。世間とは在家の人々のこと、出世間とは在家を捨てて僧となった人々のことで、結局すべての人間は四つの恩があるといっていられます。
父母の恩
衆生の恩
国の恩
三宝(仏、法、僧)の恩
この四恩は一切衆生の平等の荷なうところである。と言っていられるように、「父母の恩」「親への恩」が一番最初に出てきているのであります。
高橋信次先生は、次のように言っていられました。
「私たちはあの世で誰と夫婦になり、誰と親子になるかを決めます。『あなたは、私のお父さんになって下さい。あなたは、私のお母さ
んになって下さい。そうして、あなたをお父さんとし、あなたをお母さんとすることなしには勉強できない魂の勉強をさせて下さい』と約束をするのです」
どういう親から生まれて来ようと、それはみな自分がお願いして選んで来た父母であるというのです。
よく「親らしいこともしていないで、なぜに親に感謝できるか」と言う人があります。親の顔も知らないという人たちもあります。世の中はさまざまです。
私が生まれた頃、親は貧乏でした。四、五才頃だったと思いますが今でもそうですが、鹿児島は毎年台風が来ていました。六畳二間に少し土間があるその長屋はトタン屋根でした。風でトタンがめくれて家中、雨が降り込んで来て「起きろ」と起こされても眠くて「むしろ」にくるまって寝たことを記憶しています。小学校に行くようになって、友達が買ってもらっているようなものを買ってもらえません
でした。金持ちの家の子供を見ると羨ましく思い、もっと金持ちの親のところに生まれればよかったと、ちょっぴり親を怨むというほどのことはありませんでしたが、親に不足をおもったこともありました。
私の青年時代はずっと戦争でした。私も戦地へ行って病気になり、約一ヶ月半位寝ている間にすべて生まれて来た時からのことを反省し、心から父母に感謝しました。すべての恩に感謝しました。そうして、もういつ死んでも心残りはないという心境になった時、私は「宇宙即我」の境地に入ることが出来たのでした。

                   祈願文 園頭広周師による解説Aに続く


更新情報・おしらせ

【2012年5月6日】更新

 

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